十年近く経った今でも、まだ捨てられない口紅がある。
もはやそれは、口紅の化石だ。金色の塗装はところどころ剥がれ、ブランド名の印字も擦り切れている。フタを開けて繰り出してみれば、紅い脂が鈍く光り、嗅いでみると埃っぽい匂いがかすかにする。生気のない、冷えた無機質な匂い。
それでも私はこの口紅を、たぶん一生捨てないのだと思う。恥ずかしいようだけれど、この一本の口紅を捨てずにいる理由について、今日はあなたに話したい。
十年前、私は、男の人たちに化粧をしていた。小さなヴィジュアル系のライブハウスの、黒いカーテン一枚で会場と仕切られた狭い狭い楽屋で。もともとヴィジュアル系が好きで、男装したヴィジュアル系バンドマンになれば女の子にモテるかもしれないと安易に考える女だった私は、小さな音楽事務所の募集広告に応募し、結成されたばかりのヴィジュアル系バンドのヘアメイク兼スタッフを務めることになったのだった。
とはいえ、私の仕事はほとんどなかった。そもそもヴィジュアル系バンドをやりたがるくらいだから、メンバーたちは自分で化粧をすることに慣れていたのだ。
彼らは、とても、楽しそうだった。夜の猫の目みたいなカラーコンタクトを入れ、唇を半分だけ銀色に塗って。きっと地下のライブハウスは、お化粧の好きな男の人たちが、のびのびとお化粧することを許される数少ない場所なのだろう。
張り切って買ったメイク道具を抱えて、私はやることもなく立ち尽くしていた。
すっぴんであった。
極力ブスでいたいと思った。
私がすっぴんでいなければ、バンギャと呼ばれるヴィジュアル系ファンの女の子たちに、「麺(※バンドメンバー)とヤりたくてスタッフになったんだろ。死ね」とか書かれるに決まっている。2ちゃんねるとか、たぬきの掲示板とか、そういう匿名の裏掲示板の類で。
つらい。
どうしてみんな、人は異性とヤりたがるものだと思っているんだろう?
私は、なんなら、正直に告白してしまえば、私に「死ね」と言ってくる寂しい目の女の子とこそ抱き合いたいと思っているのに――そんなことを言ってしまえば、本当に私は死ぬしかなくなる気がしていた。私の好きな女の子から、決定的に嫌われて。
「あのさ」
ふと、声をかけられた。
「リップ持ってないかな? できるだけ赤いヤツ」
そう言ってきたのは、前髪で口以外ほとんど隠れているようなドラマーのお兄さんだった。確かに彼にはリップメイクが重要だ。黒とか、紫とか、わざわざ新品で用意したヴィジュアル系っぽい色の口紅をよけて、私は自分用の赤い口紅を取り出すと、ティッシュでふきとって紅筆と一緒に渡した。
「うーん……」
ドラマーのお兄さんは、唇を赤く塗っていった。100均の鏡で顔を隠すようにして、こそこそと。その横で、口ピアスの穴からウーロン茶を吹く話で爆笑していたベースの男の子が、新しいネタを見つけたとばかりにお兄さんをイジりはじめた。
「すっげー! 超オカマ!!」
ベースの男の子は爆笑した。口ピアスの穴からウーロン茶吹いたヤツを笑う時くらい爆笑した。ドラマーのお兄さんは表情を変えず、そうか、とだけ言って、ささっと口紅を拭いてしまった。コンビニのメイク落としシートが赤くなった。
「やっぱり、女の子用のコスメはダメみたいだなあ」
悲しくなった。
どうして、たかだか唇を赤くするための道具に、男性用と女性用があるように思われているんだろう?
どうして……どうして、たかだか自分の唇を好きな色に塗ったくらいで、誰かから爆笑されなくちゃいけないんだろう?
赤い口紅を持って、帰った。
池袋を歩きながら意地悪な気持ちになった。あのおっさんにも、このおじいさんにも、そこの男の子にも、そっちのあんちゃんにも、みんなみんな、世界中の男という男全員に、赤い口紅を塗りたくってやりたくなった。
そうすればあのドラマーのお兄さんは、もうオカマと呼ばれて爆笑されずに済むんだろうか? 男の赤い口紅を笑う人は、どうせ、男みんなが口紅を塗りはじめたら今度は口紅を塗らない男を笑うのだと思う。
菅野美穂が、香椎由宇が、BoAが、安室奈美恵が、池袋駅のドラッグストアの棚からこちらを見ていた。赤い口紅でこちらを見ていた。みんなが、女だった。
どうして、女だけなんだろう? 彼女たちがイメージキャラクターを務める化粧品は、別に女じゃない人が使ってもまったく問題ないものなのに。だって、顔になにを塗るかってことに、お股についてるものは関係ないもん。あ~あ、変なの。
彼氏の誕生日が近いということを思いだした。私は、赤い口紅をした人にキスをしてもらえたらどんなに夢みたいだろうと思っていたことを思いだした。
一度などこの赤い口紅を、男の人の部屋でこっそり彼の唇に塗ったこともあるのだ。ふざけたふりをして。あの時も、確かあの男の人は、鏡を見ることすらせずにこう言ったのだったと思う。
「ははっ。やめろよ。オカマみたい」
一緒に笑うフリをした私を、私は気持ち悪いと思った。誰より気持ち悪いと思った。
赤い口紅でなにもかも塗り替えてしまいたい。男も女も老いも若きも、みんなが赤い口紅をするようになったら、女とされない人たちはきっと地下のライブハウスじゃなくても好きなお化粧をできるようになるんだろう。私が赤い口紅のひとと――女と、愛し合いたいという欲望も、きっと「ふつう」のことだとしてもらえるのだろう。私は、赤い口紅の男を「オカマ」と笑う声と、一緒になって笑うようなことをしなくて済むのだろう。
池袋を行く人に私は赤い口紅を塗りたくった。心の中で。実際に決行する勇気はなかった。でも、たった一本の赤い口紅をカバンに秘めて、そんな空想をするだけで私には勇気が生まれた。静かな赤い勇気が生まれた。
男性用コスメ、と書かれた棚からじゃないとお化粧品を買えない人はいるんだと思う。人をオカマだと指さして笑うのと同じ圧力のもとで。笑い声は止まないけれど、いや、だからこそ、私は、あのときの口紅を捨てずに持っている。今も。
赤い口紅は魔法だ。血の色をしていながら、誰ひとり殺さずに戦う。
この魔法は決して、女だけのものじゃない。