出産、というテーマを語るのは勇気が要りますが、お産に惹かれて、お産に翻弄されて28年間産婦人科医をやってきた身としては避けて通れないテーマです。
人生が思い通りにいかないのと同じように、出産も思い通りにはいかない、というだけのことなのですが、男性に語れば所詮、男は産めないよ、と笑って片づけられてしまいます。子どものいる女性同士で語ると底なし沼のようにずぶずぶと奥が深く、時に共感し、時に傍から見たらどうしようもないほどの小競り合いが展開する世界です。何歳で、妊娠何週で、何グラムの児を何人、どうやって産んだか。まだ産んでいない、あるいは一生産む気のない女性にとっては苦痛でしかないこの話題。すみません。なぜ、苦痛なのかを今日は書いてみたいと思います。
まずは、他人にとってはどうでもいい自慢。苦労話。無敵の多幸感。あるいは、あまりに美意識のかけらもないあられもない話の数々。子ども自慢。ついでに自分の男自慢。そこに中絶の話は出てきません。流産についても控えめ。日常会話の中で子宮外妊娠や、胞状奇胎などの異常妊娠もほとんど言及されることはありません。帝王切開も、医療機関への苦言はともかく、本当の辛さを語る場はまだあまりないため、その後遺症ともいうべき心身の負担は自覚すらされていない場合もあるようで、無残に残った傷を消す工夫もできずに刻んで抱えている母も多いことでしょう。
そして、男目線で女性を分断する格好の材料が出産経験の有無。産んだ女は女として終わっている、そしてまだ産んでいない女は女として未熟、というような。「どっちなんじゃい!」と言って良いです。男は童貞かどうか、という分断があり得ますが、会社で目立つことでも、仕事に支障をきたすものでもないので原則的には不問でしょう。つまり、妊娠の話題では、女性も男目線で語られる女性の分断を受け入れ、不愉快に思ったり遠慮したり、あるいはすでに遠慮をなくしたりしているというわけです。
出産は、セックスと同じように生理現象の一つです。排尿のように、射精のように、胎児を排出する。ただ、そのサイズと意味が、排尿とは異なるわけです。排出物に意味がある。その意味あるものを排出したかどうかで男社会では扱いが異なる。つまり○○母は、一発逆転の地位を得る可能性を秘めていることになります。簡単に言えば、自分でノーベル賞を取るか、ノーベル賞を取る子を産み育てるか、は同等の価値という評価になりうるということです。男社会では、○○母の方が御しやすいともいえるかも知れません。となると栄誉は自分で取りに行くより、子どもに取りに生かせる、と言う発想が起こるかも知れずそれはあながち意味のないことでもないのです。しかもその経験が喜びや幸せに満ちたものだとしたらどうでしょう。働くお母さんのジレンマは、自分の仕事で成果を出すか、子どもで成果を出すか、あわよくば両方!という何とも言えない分断が自分の中に起こりやすいものではないかと思います。そのあたり、自分で産んでいない男性側とは意識が異なるのも致し方ないことではないかと思います。
私は理想の出産をしたいの!と滔々と理想を述べた方が、私達、医療者から見てもどうしてここまでこじれるかな・・・・というお産をされました。お産の現場はいい人だから安産、性格悪いと難産、というようにわかりやすくはなっていません。健康体で、どれほど健康管理に気を配って実践している人でも、胎盤の位置が悪いだけで帝王切開を免れない、逆に私たちがどれほど心配して口を酸っぱくして助言しても我が道を行きながら、思った通りのお産にあり着ける人もたくさん見てきました。
共通することは、ただ一つ。お産は思い通りにいかない、ということ。これは人生そのものも同じかも知れません。時代背景、周囲の援助、本人に与えられた体や精神という資源をフル活用して起こる結果を受け止める、ただそれだけだと思えば、どんなお産も自分のお産として受け止めることができる。それこそが、理想のお産と言えるのではないでしょうか。そしてそれは誰も替われないし、誰かの経験と比較することでもない。まして現状では妊娠も出産もできない男性にとやかく言われたり、勝手に採点される筋合いのことではないのです。
女性学の中で扱われる出産のジェンダーバイアスをもう少し軽くしたいな、というのが今の私の願いです。