3歳か4歳かの時、自分が原因で大騒ぎになったことがあります。客間の押入れ、下の段。客用敷き布団と掛け布団との隙間に潜りこみじっとしていたら、いつの間にか眠りこけてしまったらしく、夕食どきになってもみどりがいない・・・と慌てた母が兄たちに探すよう言い、時間が経つにつれ大騒ぎになった。一同困って深刻になり始めた頃、かすかな寝息、眠りこけている気配の押入れに気がついた兄が襖を開け発見。
「あんぽんたんっ! ねぇっ、みどりはここにいるよっ!」兄の大きな声で目が覚めた。
わたしは、この時の「眠り」がきっかけで「暗闇好き」になったと記憶している。
日が暮れはじめると
輪郭はぼやけて影は薄くなり、あたりに薄闇が忍びこむ。
黄昏時、蒼い時…。
このひと時だけはできるだけ静かに過ごしたい。
音楽をかけるなら、Victor Lazroか原田知世、Tom Waits。
入浴もロウソク灯りだけですませることが多いし、就寝前はゆらゆら揺れる灯りの中でストレッチやしばしの瞑想、これは「暗闇・治療」と呼びたいほど心身をほどく効果があります。
劇場の暗闇。
学校での時間が苦痛で逃げた先が、劇場でした。
16歳の時。
高校を1年で中退して劇団四季の研究生になりました。
劇場の舞台は特殊な「場所」です。
国も時代も軽々と超える「なにもない空間」であり想像力次第で如何様にもなり得る「不思議空間」でもあります。
ジジジィ~~、あるいは、ブゥゥ~というお決まりの開始音と共に客席が暗くなっていって、真っ暗闇の中で、数秒、現実の時を止め、そして、「劇の時間」が始まっていきます。
今も、きっとこれからも、演劇にしろ映画にしろ「劇場の暗闇」が定期的に必要なわたしです。
つい先日、「真の暗闇」を体験したくて「Dialogue in the Dark」 DID、「暗闇の中の対話」に行ってきました。
同じ時間帯を予約した知らない人同士がが7~8人でひとグループとなり「真の暗闇」で過ごす90分。
視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚、この五感のひとつ「視覚」がないとどうなるのか。
「アテンド」と呼ぶスタッフ(視覚障害者) がひとりついてガイドしてくれる。
まずグループのひと同士が自己紹介、それぞれの声を覚える。
持たされたステッキの扱いを教わり、前方安全確認するため差しだす両手の形を教わる(差し出した指で誰かを刺したりしないよう手のひらを自分側にする)。
当たり前のことですが、光を完全に遮断したところでは何も見えない、なにひとつ。
目を開けていても閉じていても、全く同じ。
だから「容姿」「見た目」の価値や意味が消えてその分「声」がモノを言う。
温かい声、やさしい声、頼りになる声、悲しそうな声、幼稚な声・・・。
グループから離れてしまうことが怖いから誰かとくっついていたくなる、寄り添っていたくなる。
「段差がある」「ここに出っ張りがある」「この壁はここまで」と始終声を出して教えあう、協力がないと過ごせない。次第にやさしい気持ちが生まれてきて仲間意識もでてくる。
後半は「カフェ」で過ごします。ビールかお茶かジュースか、おやつセットも注文できる。
それぞれお互いの声が重ならないように集中して、注文する。
カフェのスタッフには驚きました! ビールだって缶じゃなくジョッキのビールなのによくこぼさず、しかも、正確に運ぶものだと感動。
「視覚情報」ゼロの中での飲食は味覚が逆転、
チョコレートが気持ち悪い~ (甘いと感じる前にあの固いかたまり感を感じてしまうしグニャグニャしていく気持ち悪さったら ) グミもぐっちゃぐっちゃする触覚が超・気持ち悪い~。ビールもなんだか、冷たいだけの液体・・・
視覚障害のある方は暗闇に慣れているから自由自在で、健常者は歩くことすらできない弱者になる、この逆転も新鮮だった。
当たり前が当たり前でなくなったらどう受けとめるのか、ひとりでは生きていけないと自分の心が柔軟になっていくことを実感しました。
全てのプログラムが終了して僅かな灯りだけの部屋に移動、それから、もとの明るい場所に出る。
すると、これがね、何もかもが明るみにさらされてあからさますぎるように感じてちょっと恥ずかしい。
なんだかデリケートさに欠けると無口にさえなってしまう。
「化粧」というテーマをいただいて書いてみたら「暗闇」のことばかり書いてしまいました、が、見える世界での「化粧」と見えない世界での「化粧」…、
そのふたつをゆっくり考えたら、他人の目に、そして、自分の目に「どう映る自分」でありたいのかがわかるかも知れない。