タイトルや細かい内容までは忘れてしまったのだが、以前、酒井順子さんのエッセイを読んで「そうか!」と膝を打ったことがあった。それはたしか「オタクはなぜ見た目を気にしないか」といったテーマのエッセイで、突き出た腹にヨレヨレのTシャツ、ジーンズ、大きな紙袋を両手に携えて電車に乗り込んでくるコミケか何か帰りのオタク青年たちを見ながら、酒井さんはふと「この人たちは自分がどう見えているかに意識が向いていないのではないか。透明人間のように自分を感じているのではないか」と思うのだ。
そして、自分はそこまで吹っ切れておらず、「どう見えるかな?」と他者の目を意識するからこそ、化粧したりダイエットしたり洋服に気をつかったりするのでは、といった分析が行われていた(正確な引用じゃなくてごめんなさい)。
私は「そうだよ、私も同じだ!」とオタクの自己認識ほうに共感して、膝を打ったのだ。私は自分にあまり関心がなく、ときどきいまどんな服装をしているのか、太り気味なのかそうでないのかなどの外見だけではなくて、年齢や性別までぼんやりしてきて忘れそうになることさえあるのだ。
ときどき「ペンネームの“香山リカ”って、あのリカちゃん人形から取ったんでしょう?着せ替え人形の名前をペンネームにするということは、ファッションやメイクに相当こだわりがあるんですね」と言われることがあり、説明に困ってしまう。「香山リカ」というペンネームは私がサブカル雑誌で埋め草の原稿を書いていたとき、編集者が「無名じゃなんだから」とやっつけでつけた名前なのだ。名前というより「記号」と言ってもよいだろう。「じゃ次の号も」という感じで習慣的にその「記号」を使っているうちに、1年、2年…と時間が経過し、気がつくと30年以上がたっていた、というわけだ。つまり、このペンネームはこだわりがあってつけたものではなく、逆に自分のことなんてどうでもいいからこそ、こんな名前を使い続けられるというわけなのだ。
私は「リベラル主義者」つまり自由主義を自分の思想信条としているので、何にせよ、押しつけとか強制はイヤだ、と思っている。個人の自由にさせてよ、ということだ。ところが、頭ではそう考えていても、自分自身は必ずしもそうではないところが悩みの種だ。たとえば私は毎日、着ていくものを考えなくてすむ制服が大好きで、病院に出勤する日は「ああ、白衣ってラク」と心から思っている。小中学生時代は学校給食も大好きだったし、医者になってからは三食、患者さんと同じ献立を食べられる当直勤務を率先して引き受けていた。
では、自分に関心がなくてその存在を忘れがちな私は、いったい何に関心があるのか。それはそのときどきで、ゲームだったりプロレスだったり反原発運動だったりと大小、硬軟はさまざまだが、とにかく「私抜きで成り立っている世界」の動向が気になる。というより、文字通り「うつつを抜かして」それにのめり込んでしまうのだ。
ネットの世界ではいまだに私のような女性発言者に対して、「ババアのくせに」「ブス、デブ」といった年齢や外見をあげつらうバッシングの言葉が投げかけられる。でも、私は平気。「私…私ってどんな顔なんだっけ」ということもすぐ忘れるので、「ブス」と言われても「ああ、そうなんだ」くらいにしか思わないからだ。
それにしてもこの世は、なぜ自分が透明人間になって別の世界に夢中になるオタク体質の人間と、「私っていまどう見えてるのかな?」と気になるリアル体質の人間がいるのか。これはあまりに深い問題ですぐに答えが出そうにないが、生きているあいだに何としても解明したいと真剣に考えている。