私の顔と、兄の顔と、母の顔は、三つ子のようによく似ている。例えば、運悪く戦時中の中国で置き去りにされて50年後に再会したとしても絶対分かるというほど似ている。
姉と弟は父親似で、良いとこのお嬢ちゃん、お坊ちゃんのように見えた。お人形さんのような姉と、兄のお古ばかりで小汚い私は、同じ女とはとても思えなかった。
兄は、小さい時から「オレは男だからいいけど、お前は女だから(その顔じゃダメだ)なぁ」と何度も言った。その上、子どもの頃の母は笑ったことがなく、いつも不愉快そうにしていたから、自分も年をとったらあんな顔になるのかと思うと、憂鬱だった。
美人の姉、ブスな妹、賢い姉、アホな妹、きちんとした姉、何でもよく忘れる妹と、全てが対照的で、親戚たちはよく私を見てため息をついていたほどだ。
そんな私が化粧をするようになったのは、背が高かったことから、カットモデルになったのを機にモデルクラブに入ったからだ。当時、東洋的な美を象徴するモデルの山口小夜子さんが出てきて、私のようなキツネ目顔がちょっと復権してきていた。親族は、ブスな私がモデルをやるというので、相当驚いた。
その後、広告代理店で化粧品の宣伝を担当し、朝から晩まで化粧をしまくった。季節ごとに変わる化粧法やらなにやらで、いろんな顔ができた。売るための化粧である。
プライベートで化粧をした記憶がないのを見ると、たぶん私は、派手な世界とか、化粧とか、そういうことが好きではないのだろうと思う。
また、私の部屋には鏡がない。正確に言うと、外出するときのための姿見がドアの横にある程度だ。普段は鏡も見ない。
周囲から「今日はお金になる仕事ですか?」と言われて、あぁ、私は、カネのために化粧をしているんだと気づいた。反対に、化粧をしていないならお金をもらってはいけないとも思っていた。化粧は、未熟な私をカバーし、女を演じるための必要不可欠の道具だった。
そして、その女を演じ続ける限り、働くことはすなわちセクハラを恒常的に受け続けることでもあった。女であることを早くやめたかった。性の対象となって毎回緊張しながら生きるのは、本当にしんどかった。
あるとき、意を決して、講演会にスッピンで行った。何か言われるかとドキドキしたが、やってみれば何も変わらなかった。何も言われなかった。なぜだかホッとした。もう女を演じなくていいんだと思うと、ほんとうに嬉しかった。
自分の実力で仕事をしているんだと思えたときの解放感は、言葉にならなかった。
その後、スッピンでテレビに出て、東電批判をして、番組から降ろされたときも、なんだかホッとした。媚びてまでここにいなくてもいい、そう言えるだけの自分がそこにはあった。自分を取り戻した感じがしたのだ。
いま、私は、自分の顔が好きだ。シワもシミもたるみも出てきたこの険しい顔が好きだ。しかし、この顔に似合う化粧法にはまだ出会っていない。
若作りの化粧などしたくもない。必死に生きてきた自分の顔に値する化粧は、棺桶に入るときの死化粧なんだろうなぁと思っている。