義母の台所の棚の上には小さな木製の人形が並んでいる。旧東ドイツのエルツ地方の名産でもある、精細な手造りの人形だ。それを見上げて義母が語り出す。
サイレンの音と共に地鳴りがだんだんと近づいてきて、母が私に上着を着せたの。ふと見上げたら、棚の上の小さな人形がカタカタ動いているのよ。でもあの人形は大事なので触っちゃいけないっていつも言われてたから、手を出さなかった。もし触ってもよかったのなら、一緒に持っていったわ。
まだ幼い娘は人形をそのままに、母親に連れられて曾祖母と共に地下室へ降りた。母親は空のバスタブの中に娘を座らせ、ありったけの布を水に浸してその周りに敷いた。激しくなる爆撃の音に、隙間から外を見上げた母親は叫んだ。空が燃えているみたいに真っ赤よ!それを聞いた曾祖母はおもむろに立ち上がり「いつか燐が空から降ってきたら、その時が私の最後になる」と以前から言っていた言葉をまた呟いて、地下室の奥へ一人で下がっていった。部屋の奥で天を仰ぐように両手を挙げて立ち尽くしたそのとき、曾祖母の上で爆弾が炸裂し、彼女は瓦礫の下に消えた。
娘と母親の居た出口付近は幸いにも潰れなかった。濡れた布で火を防ぎながらなんとか外へ出て、彼女たちは伯母の居る150メートル離れた別の建物の地下室へと逃げ込んだ。しばらくして激しい音は弱くなり、爆撃は一旦収まったかのようにみえたので、瓦礫の下の曾祖母を探しに行こうと母親は娘を伯母に預けて外に出た。防火団の男性と共に潰れた家に向かった母親はしかし曾祖母を見つけられず、そうするうちに再び爆撃が始まってしまった。そのままそこで身を潜めざるをえず、爆撃が止んでから娘の所に戻ってみれば、その建物も焼け落ちていた。この家の家族は全員逃げられた筈だと、近所の人が母親に教えてくれたが、母親と娘が再び出会えたのは、その数日後であった。
これが、1945年2月13日のドレスデン大空襲を体験した義母の話である。このドレスデンの空襲は2月13日から15日にかけて英米の連合軍によって行われた爆撃で、街の85%が破壊され、2万5千人とも15万人とも言われる犠牲者が出た。当時ドレスデンには20万人と言われるプロイセン地方からの難民や数千人の戦傷者が滞在していたことで正確な住民数がわからず、また生存者の住民登録なども不明になった為に正確な死者の数はわかっていないが、その日の気象条件などが重なって大規模な火災が発生し、炎に巻かれるように人が亡くなったという、空襲の被害は甚大なものであった。今では観光名所となっているゼンパーオペラ座や聖母教会などもこの空襲で破壊され、その後何十年も経ってから再建されたものである。ちょうど十年程前、この聖母教会が住民運動による寄付で再建されたとき、義母もその教会の瓦礫の一部である小さな石が入った腕時計を寄付代わりに買っていたのを覚えている。
空襲で家を焼け出された彼女と母親はドレスデン郊外の小さな村に身を寄せ、終戦後、旅回りの舞台女優だった母親に連れられて彼女は西の方へと移り住み、その後ドイツは東西二つの国へと分れて、彼女たちはドレスデンに残った身内と簡単に会えなくなってしまうのである。
普段はあっけらかんとしている義母からは想像もつかない壮絶な体験話で、目の前の彼女を見ながら、よくもまあそんな大変な状況を生き延びて、そうでなかったら夫も(そして私も)この場には存在しなかっただろうなあと思うと、人生とは不思議なものだとも思う。
子供には高価なものだから触っちゃいけないって言われてたから、そうしたのよ。でも持って逃げることができたなら、と今でも彼女は悔しそうに言う。あの時の人形は当然空襲で焼けてしまい、台所に飾ってあるのは彼女が大人になってから自分で買ったものだ。当時4歳だった自分の記憶や、母親が後日話してくれたことを義母は今、文章にまとめている。
その約1か月後の3月10日は東京大空襲があった日だが、日本でも、義母のような話がどこかで語られたりしているだろうか。
お土産屋さんで売られていたエルツ名産の人形。ドイツ土産の定番でもあります。一つ一つが職人の手造りなので、小さくてもとても高価なもの。このセットで120ユーロだそうです。エルツに近いドレスデンの義母の実家でも大切に飾ってあったのでしょう。