10月21日はフランスが初めて国会に女性を送った日から、ちょうど70年目の記念日だった。そう、意外に思うかもしれないが、フランスで女性参政権が認められたのは、第二次世界大戦が終わった1945年、日本とまったく同じなのだ。
この日、国民議会(日本の衆院にあたる)に送られた女性議員は33名。ちなみに日本では翌1946年に初の女性参加の衆議院選が行われ、39名の女性が議員となっている。こうして見ると、まるで双子のように似ている。
もう少し詳しく見てみると、フランスでは586議席中の33議席なので、全議席数に占める女性議席数の割合は5,6%。かたや日本は466議席中の39議席なので8,4%とむしろ優勢だ。
ところが70年たった現在はどうなっているか。フランスの国民議会における女性の数は577議席中の151議席、割合にしておよそ26%。対する日本は、衆議院475議席中45議席、9,5%。おやおや、かなりと差が開いてしまっている。
これはどうしたわけか。と、調べてみたら、1946年の日本の39名、8,4%という数字はどうも例外的なものであるらしい。まず、これは旧憲法下で行われた最後の衆議院選挙で、有権者一人が2名、3名の候補の名前を連ねて投票できる制度だった。そのため翌年、新憲法の下で新たな選挙が行われたときにはすでに15名(3,2%)と半数以下に減ってしまっている。さらに言うと、戦後初の選挙では、「公職追放」により、戦前の議員の8割が出馬できなくなっていたことの影響も大きそうだ。新人ばかりで当選し易かったこともあるのだろう。また名誉ある初女性議員の中には、「追放」されてしまった夫に代わって政治家の家系の議席を守り抜いたという名誉なんだかなんなんだかという例もあったようだ。そんなわけで、公職追放が解除になる1951年の翌年の衆院選になると女性議員の数はなんと9人に落ち込み、その割合たるや2%を切ってしまう。このように考えてみると、フランスより優勢に見えたことの方が見かけだけだったのだろう。
さて、フランスの33名の女性議員は、ジャーナリストや教師、弁護士が多いが、看護師、事務員、速記タイピストや労働者もいた。圧倒的に職業婦人で、そうでないのは3名、つまり10分の1。
対する日本の方は逆に、39名中22名、およそ3人に2人が主婦もしくは無職である。
この違いは1945年当時の両国の女性の社会進出状況を感じさせて面白い。フランスでも33人中30人が働く女性というのは、当時の一般女性の反映ではない。ただ、フランスでは1924年に中等教育の内容が男女同じになって女性に大学への道が開かれていたこと、都市の給与労働者が20年代から30年代に増加したことなど考えると、事務員やタイピストなども含み、様々な職種に女性が進出していたことは言えるだろう。フランスの初代女性国会議員には弁護士が数名いるが日本にはいないのも、フランスの初女性弁護士が出たのは1907年で、日本では中川マサが出る1936年まで待たなければならないことを考えると納得できる気がする。
終戦という機会が女性参政権を与えてくれたのは同じとは言え、女性の権利状況は両国では違っていたと言うべきなのだ。
それは恋愛結婚を例にとってもそうだ。フランスでは1920年代にはすでに恋愛結婚でない結婚は稀になっていた。が、日本では1945年時点で恋愛結婚はほとんど皆無だろう。
恋愛結婚は、日本国憲法の第24条が定める、婚姻における両性の平等によって日本国の女性に保証され、もたらされたものと言える。GHQの憲法草案を見て、日本政府が最も反対したのは戦争放棄の9条ではなく、女性の権利を謳った24条であったということだ。「日本の現状に合わない」と。
GHQが憲法を「押し付けて」くれてよかった。少なくとも我々女性にとって、それは間違いのないところだ。そもそもGHQが憲法を起草したのは、日本側が起草した憲法がまるで民主的でなく明治憲法の焼き直しだったからだ。当時の日本人では考えられなかった女性の権利。民主的な憲法。
その日本国憲法の可決に、戦後革命の徒花だったかもしれない39名は、とにもかくにも加わった。そして70年の歳月をかけて、日本の女たちはそれを自分のものにして来た。
10月21日、フランスでは、国民議会議場に「女権宣言」で有名なオランプ・ド・グージュの胸像を収めて女性参政権を祝った。
日本の女性参政権70周年の来年4月10日には、私たちは何を祝うことになるだろうか。