11月26日、フランスは一人の女性政治家にオマージュを捧げた。その名はシモーヌ・ヴェイユ。今を去ること40年前、1974年のこの日、圧倒的な数の男性議員に埋められた国会の席で、女性の権利を訴え、堕胎罪を廃止し人工妊娠中絶を合法化させた、時の厚生大臣である。
「我々はもう、毎年、我が国の30万人の女性たちが堕胎により肉体や精神に傷を負っている事実に目を瞑っているわけにはいきません」
当時、非合法下で中絶をする女性は後を断たなかった。育てられない子を妊った女性たちは法を犯しても中絶しようとした。お金のある者は外国に中絶に行ったが、ない者は闇の中絶業者や自力での不衛生で危険な方法に訴え、体を傷つけたり命を落とすこともあった。
数年前から中絶合法化の気運が起こっていた。1971年4月5日、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌に343人の署名を連ねた「私も中絶をした」というアピールが掲載された。署名者の中には、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャンヌ・モロー、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、フランソワーズ・サガンなどの著名人の名が見られた。
翌1972年には、レイプされて妊娠した17歳の少女が刑務所送りになるところを、猛烈な反対運動が起こってこれを阻止する。ボビニー裁判として知られるが、このとき、シモーヌ・ヴェイユは判事として活躍している。
しかし当時のフランスの保守的なモラルは人工妊娠中絶に厳しかった。1973年には、ヴェイユの前任者ポニアトウスキーが提案した人工妊娠中絶法案が、225票対212票で否決された。
シラク内閣の厚相に任命されたシモーヌ・ヴェイユも批判の矢面に立たされた。自宅の外壁にはハーゲンクロイツが描かれ、道ばたで公然と罵声を投げかけられた。
国会では「中絶とは合法的な民族皆殺しだ」とナチと同一視する反対意見が彼女を襲った。
父、母、弟をアウシュヴィッツで亡くし、自らも奇跡的に生還したシモーヌ・ヴェイユは、その自分をナチの殺人者になぞらえる声をどんな思いで聞いただろう。最後まで毅然としていた彼女も顔をうつ伏し声を殺して泣いた。
妊娠中絶法案は賛成284票、反対189票で可決された。ヴェイユ自身が属する保守政党RPRの議員に罵られ、野党の票を得て通した法案だった。
その日、帰宅したヴェイユは法案に反対した議員の妻たちから、感謝の花束を受け取った。夫の反対票を謝罪する言葉が添えられていたという。
このエピソードは、フランスで知らない人はない。フランスの女性はすべて、シモーヌ・ヴェイユのこの快挙の恩恵を受けており、そのことを繰り返し胸に刻んでいる。
ヴェイユは法案を擁護する演説の中でこう言った。
「フランスを二分した数々の大論争は、時を置いてみるとき、新しい社会的コンセンサスの醸成に必要な一段階であったと見做され、我が国の寛容とバランスの伝統を成しているのです。」
40年経った今、彼女の言葉のとおり、女性の妊娠中絶の権利は、フランスでは否定されることのない常識となり、女性の勝ち取った輝かしい勝利の象徴として、シモーヌ・ヴェイユは男女を問わぬ尊敬の対象である。
40年目の記念日に、フランス国営放送FRANCE2は、ヴェイユをヒロインとするテレビ映画を放映した。エマニュエル・ドヴォスがヴェイユを演じ、15%という高視聴率を誇った。
日本女性の私は、こんな女性の勝利の物語を持ち、繰り返し思い出すフランス人たちを素直に羨ましく思った。ヴェイユが妊娠中絶法案を通した当時、国会に女性議員はたったの9名だった。日本の現在の女性衆議院議員はそれよりは多いとはいえ、全体の8%で、列国議会同盟加盟189カ国中127位。集中砲火を浴びるヴェイユの姿に、規模も内容も全然違うけれども、妊娠・出産支援を訴えてセクハラ・ヤジに晒される女性議員の姿がダブって見えた。そして日本の現女性閣僚のいったい誰が、本当に女性のために、信念をもって働いてくれるのだろうかという疑問が頭をよぎる。
日本の女はまだ、これから伝説を作らなければならないのだ。