半裸でおっぱいを剥き出しにして路上に現れ、奇抜なパフォーマンスで訴えるフェミニスト団体、FEMEN(フィーメン)をご存知だろうか?
ウクライナで2008年に生まれたこの運動は現在、ヨーロッパ各国に広がっているが、フランスでは2年前の2月、エッフェル塔の前にブルカ(イスラム女性のヴェール)を着て並んだ女たちが、突然それを脱ぎ捨ててトップレスになるパフォーマンスで有名になった。女性抑圧の象徴ブルカを脱いでイスラム女性の自由を擁護するという意図だった。
同じ年の12月には、政府が準備していた同性婚法案の可決に反対するデモに、修道女のいでたちで潜入し、修道服をかなぐり捨てると体に「Fuck God」「Fuck Religion」などと書いてある姿で、同性婚に反対する保守層、カトリック信者たちを挑発した。
2013年2月にローマ法王ベネディクト16世が退位表明したときには、ツーリストに交じってパリのノートルダム寺院に入り、これまた突然トップレスになって「法王はもういらない」と叫んだり、修復のために展示されていた鐘を叩いたりした。
最近、この件で起訴されていた9人の活動家が、裁判で無罪になった。かたや、彼女たちをつまみ出したノートルダムの警備員の方に刑を科されたので、納得できないという声が上がっている。
フィーメンの活動を特徴づけるのは、裸の胸にスローガンを書いて公衆の前に晒すことだ。現在、運動の創設者であるウクライナ人たちがパリに本部を置き国際組織となったフィーメンだが、だからといって中央支配が徹底しているわけではないので、どこでも、裸の胸で自己主張すればフィーメンであるようだ。
フィーメンの根底にある思想は女性の権利擁護であり、独裁に対する反対であり、家父長制的価値観に敵対する。そして宗教は深く家父長制的価値観と結びつくという理由で攻撃の対象になっている。
宗教との関係を分かりやすく言うと、たとえばキリスト教は中絶を禁止している。神が与えた命を人間が失わせてはならないという倫理に反するからだ。しかし、それは女性が自分の体を自由にする権利と相容れない。そういうわけで、2013年12月には、カトリックのロビー団体が反中絶キャンペーンを繰り広げたが、フィーメンは、これを批判するためマドレーヌ寺院で堕胎の模倣をするというパフォーマンスを行った。祭壇に子牛の肝臓を置いて胎児に見立て、堕胎する女を演じた活動家の背にはChrismas is abortedと書かれていた。
フィーメンの活動はスキャンダラスで思想的な深みがないと、節度のあるフェミニストからは顰蹙を買っている。私も、特に宗教を相手にするときやイスラム世界を相手にするときには軽卒さや悪趣味を感じることが多い。
しかし、女が裸の胸の上に主義主張を書いて晒すというこの方法自体は、ちょっと面白いと思わないではない。女の運動であることが一目瞭然だし、注目を集めるという何よりの効果がある。
政治的な意志表明として蝋人形のプーチンを壊したウクライナ人活動家や警官に集団レイプされたチュニジア人女性を擁護するため、ルーヴル美術館のミロのヴィーナスに「Rape me I’m immoral」と書いたプラカードを掛けさせた闘士などは面白いと思う。
在来のフェミニズムが勢いを失っているところに、若い女性の元気が活を入れている面もある。なんせ、フィーメンの活動家は晒した上半身が美しいのだ。訓練をしていて、だらしなく太った体などどこにもない。
もちろん、美しいだけに、既成の女性の価値観から抜け出ていない、自分たちで批判している性的なオブジェに自分たちがなってしまっているのではないか、といった批判もある。けれど、男の視線に媚びる肉体と、女が自分で見せる肉体とは、同じように美しくても、やはり意味は違うのではなかろうか。女の裸体は客体でなく主体であるときには女性の自由の象徴になり得るものなのだ。
フィーメンは国際的に広がっている。日本でも、秘密保護法や解釈改憲や武器輸出や原発再稼働に反対して、半裸で抗議する女たちがいても良いような気がする(日本だとすぐに逮捕されてしまいそうにも思うが)。私がやってもよいような気がしないこともないのだが、若い女性の美しい肉体でないと効果がないところが問題だ。