フランス人たちは徹底しているなあと、つくづく思った。この7月23日に上・下院が最終的に可決した「男女間の実質的平等に関する」と銘打った法律のなかで、1975年にフランスの女性に中絶を法的に認めた歴史的なヴェイユ法の条文から、中絶を認める条件だった、子どもが生まれることで女性が「苦境に陥る」場合という条件を削除することを決めたのだ。
「苦境」自体、定義が曖昧な言葉なので、事実上、中絶は自由だったのだが、今後は名実ともに、女性の完全な自由意志のもと、中絶になんの理由づけもいらなくなるのである。これにはさすがに保守派が難色を示したものの、最後は反対票は投じず、棄権という形で見送った。
そもそもフランスでは中絶は女性の権利だという認識は広く共有されているから、保守派といえども、ことさらに頑迷と見られるような態度はとりたくなかったのだろう。
フランスでは中絶のことをIVG(Interruption volontaire de grossesse)言うが、これを忠実に訳すと「自由意志による妊娠中絶」になる。日本の「人工妊娠中絶」という表現と明らかに違うのは、「自由意志による」という部分だ。女性が自分の意志で自分の体のことを決めるという「自己決定権」が、この言葉のなかにすでに織り込まれているのである。テクニカルな面しか反映しない「人工妊娠中絶」にはそれがまったく存在しない。
日本で中絶を定めた法律は「母体保護法」だが、この法律が「産む、産まないを決めるのは女性の権利」という発想に基づくものでないことは、意外に意識されていないのではないかと思う。「母体保護法」で許されているのは、「本人が望み、配偶者の同意がある場合に、医師が人工妊娠中絶を行うこと」でしかない。
その一方で、中絶を一律に禁止した刑法堕胎罪は未だに実効しているのである。つまり、現在でも日本の法律では、妊娠した女は原則として子供を産まなければならない。ただし、母体保護法の規定により、例外として中絶しても罰せられないだけなのだ。そのどこにも、「女が自分の意志で自分の体のことを決定する権利がある」という認識はない。
日本の女性たちは、「実際上は中絶ができる」という便利さに甘んじて、権利が認められていないという問題を考える機会を失っているのではないか。同じように自由に中絶ができても、「苦境に陥る」の一語を削ってまで原則を通すことにこだわる、この彼我の隔たりには、フランスで暮らす日本人の私は唖然としてしまう。
しかし、実際上、中絶ができるかできないかというプラティカルなレベルを超えて、女性の権利が尊重されているかいないかは、ただの言葉の問題ではなく、多くの現実に微妙に影響するのだ。モーニング・アフター・ピルへのアクセスや、出産後のケアへの公的補助・・・
そして、中絶を堂々と女性の権利と認めるこの法律では、中絶へのアクセスを妨げる行為が処罰の対象になることを付け加えておこう。これは、中絶反対派によるクリニックの封鎖や精神的な嫌がらせ、脅迫などを主に指しているが、中絶に関する情報を女性に与えないことにも拡大されるということだ。
そこで一言、私も中絶に関する情報をお知らせしたい。日本では中絶がいまだに掻爬手術で行われていると聞くが、フランスでは現在、中絶の半数は薬の服用で行われている。そういうことを、日本の女性は知らないのではないか?
薬による中絶は、芽生えた生命がまだ「胎芽」と呼ばれる、人間の形をしていない状態のときに行われる。妊娠5週目までの中絶にしか使えない方法だが、まだ人間になっていないものを流すのは、小さい人間を殺すよりも心理的な負担も軽いだろうし、物理的にも手術より母体に負担をかけない。この方法が一般に行われるようになったのは1990年、今からなんと24年も前のことだ。現在でも掻爬手術にたよる日本では、手術が可能になるまで、わざわざ胎児が適当な大きさになるまで待つケースもあると聞いて、私は本当に驚いた。「母体保護法」と謳いながら、母体を保護するこの技術が未だに日本に入っていないことに日本の女性はもっと怒るべきだと思う。(と、中絶に関する情報を日本の女性と共有することで、フランスの新法律を個人的に遵守いたしました。)