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この記事は2003年10月14日ラブピースクラブで公開されたインタビュー記事です。

サイトリニューアルに伴い、リクエストの多かった記事を再掲載していきます。

田原節子さんは元・日本テレビのアナウンサー。ウーマンリブに出会い、マスコミで働く女性たちと共に、「ウルフの会」を結成。田中美津さんらの「若者リブ」とは一線を画した、結婚・出産を経た30代の女たち「中年リブ」の急先鋒として活躍する。 二人目の夫は田原 総一朗氏。節子さんは、私たちのインタビューのちょうど1年後の2004年8月13日に、乳がんで永眠されました。

 

 

 

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私たちが「節子」さんに出会ったのは、田原総一朗夫妻が共同執筆した話題の著書、『私たちの愛』の中だった。若いジャーナリストと日本テレビアナウンサーの27年間の「W不倫」生活。二人がそれぞれに、恋情・セックスを赤裸々に綴る「愛の物語」だ。正直、「キワモノ本」として手に取り、お菓子をほおばりながら寝ころびながら読むはずだった。 

 

ところが、読み進めるにうちに私は、気づかぬうちに姿勢を正していた。恋愛の激しい情動、めくるめくセックス描写はどうでもよくなっていた。「二人」の歴史よりも何よりも心惹かれたのは、妻「田原節子さん」自身の物語だった。 

 

田原節子さんは元・日本テレビのアナウンサー。ウーマンリブに出会い、マスコミで働く女性たちと共に、「ウルフの会」を結成。田中美津さんらの「若者リブ」とは一線を画した、結婚・出産を経た30代の女たち「中年リブ」の急先鋒として活躍する。 

 

『私たちの愛』には、当時の節子さんの活動が、総一朗氏との物語の陰に隠れてではあるが、情熱を持って記されている。女たちが何かを変えなくては、というエネルギーに突き動かされ集まり、語り、活動していった力が、そのまま文章から伝わってくる。 

 

男との「愛」の物語を中心にしながらも、一方で聞こえてくる「女1人」の人生は鮮やかだった。だからなのだろうか、本が終わりに向かってゆくにつれ、本書に潜んでいる(ように感じられた)不協和音が、気になってきた。 

 

節子さんは日本テレビを50才で早期退職し、3年後、総一朗氏と結婚。結婚後は病弱な総一朗氏の「看護人」「秘書」「専業主婦」(ご本人の言葉)として生活している。90年代を通し、日本中の誰もが知っているほどの有名になった夫を、節子さんは文字通り支えてこられた。 

 

それでも。と、私はどうしても思ってしまうのだった。一貫してリブの視線を貫いていた節子さんだからこそ、こんな問いが頭から消せない。「看護婦? 秘書? それでいいの?」看護婦差別でもなく、秘書差別でもなくて。自身の言葉を持つことにこだわり、女が自由に生きることに情熱を注いできた節子さんだからこそ。 

 

節子さんの言葉を聞きたい。ブラウン管でよく見る総一朗氏の後ろにいる、昔リブだった女性の言葉を聞きたい。そんな思いを抱えていた折り、友だちが『日本ウーマンリブ史』『リ私史ノート』から「村上節子さん」の名前を見つけた。『私たちの愛』には一切登場しなかった「村上節子」という名前は、日本のウーマンリブを語る上で欠かせない存在であったことを、私たちはすぐに知る。 

 

節子さんの病状は、いま決して、良いとは言えない。私たちが伺ったのは、夏の聖路加病院で、節子さんは癌が転移した腰の骨にヒビが入ってしまい、絶対安静の状況だった。その中で、私たちに3日間、という時間を費やしてくださった。 

 

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●いい時代を生きてきた

 

66だからね。話せば長い。

 

私はね、高度成長のラークラク時代を生きてきたのね。仲間でよく言うのは、「私たちいい時代生きた」と。家庭菜園の時代から、テレビ買った・冷蔵庫買った・クーラー買った・ダブルベッド買った・小さい家が大きくなったなど、日本中が倍々ゲームをやって、気がついたら、私たちの世代が一番年金をしっかりもらっているのね。 

 

日本の歴史始まって以来の繁栄の中で、日本の歴史始まって以来の恩恵を、年金という形で受けている。今、60代なんて、海外旅行はするわ、趣味の油絵を描いて個展をひらくわ、何やってんだろう、という感じ。何の苦労もしてないのよ。終戦の時に小学生だから戦争責任感じてない。全然感じてない。むしろ被害者だと思ってる。で、今色んなことが起きていても、知らないよ、もうすぐ死ぬからねって。・・・今しゃべっていて急に恥ずかしくなってきた(笑い)。

 

私の親の世代は、社会が女を受け入れない時代を生きてた。母は父と二人で、父の夢であるピアノを創るのを一生懸命支えていた。それでやっと軌道に乗り始めたなと思ったら、戦争。世の中がピアノどころじゃなくなっちゃった。父も母も、自分の仕事を貫徹できなかったのね。親はかわいそうだったと思う。戦争というもので、自分たちの夢が壊れてしまったのだから。 

 

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●強い女モデルが母だった

 

母は私の強い女モデルです。弁護士になりたかった人なのね。夫婦ゲンカするとね、こう言うの。「結婚するつもりはなかった。子どもも産むつもりもなかった」と。子どもの前でよ。女4人姉妹でしたが、子どももね「そうだろうな」「面白いこと言うな」と思うのよ。

 

最近知ったのだけど。女が弁護士試験を受けられるようになったのは昭和11年(1936)(注)。母が結婚したのは昭和9年(1934)。彼女には、弁護士になるチャンスは確かになかったの。もし、はじめから女が弁護士資格を取れたとしたら、私はこの世に存在しないし、彼女は優秀な弁護士になってたかもしれない。心から尊敬している女です。あの時代に生きていながら、自分というものを相当しっかり持っていました。

 

ヘンな言い方だけど、自分に近いものを持っている女って、目をあわせれば分かるの。空気、みたいなものを感じるのね。リブの時代なんて、まさにそんな感じだった。会ったわね、もうしゃべっちゃおう、みたいなね。そういう「同士」みたいなのを母親には感じてたのね。 

 

 

注)弁護士資格の法案が改正されたのは1933年(昭和8)、施行されたのは1936年(昭和11)だった。日本に初めて女性弁護士が登場するのは1940(昭15)年。 (久米愛、三渕嘉子、中田正子)。

 

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●日本テレビに入社

 

そんな母のおかげで、仕事をしない人生など考えられなかった。就職するならば、早稲田か慶応と思ってました。あそこは男の大学。逆に言えば男並の資格を得られる大学はそこしかなかったの。就職するのならば、そこしかない。 

 

私が卒業したのは昭和34年(1959)。女子大生はまだまだ少なかった時代でした。当然、就職するときに「(四大卒)女子可」の会社は少ない。新聞社と放送局、出版社だけ。出版社だって主婦の友社だけ。文春も講談社も男だけだったのよ。テレビ局は、女子はアナウンサーしか募集していなかった。アナウンサーにどうしてもなりたかったわけじゃない。アナウンサーしかなかったの。 

 

アナウンサーの試験ってね、 9次まであるの。一番最初は、30秒。Aの扉、Bの扉二つあって、Aの扉から入ると、6人くらいの試験官が並んでる。呼ばれると、こつこつ開けて入って「失礼します」。で、回れ右してドアをしめて、また一礼して、その後はAの扉からBの扉まで、歩く。真ん中で止まる。試験官の前を向く。そこで質問があったり、なかったり。それからおじぎして、またBの扉から出ていく。だから、30秒試験。とにかく、アナウンサーしか受けられないわけだから、東京中の女子学生が受けたと思う。2500人受けたんです。「若干名」の枠に。

 

 

1959年、節子さんは日本テレビアナウンサーとして入社。同時に受けたNHKも最終面接まで残った。新人時代は、有名な童謡歌手だった妹「古賀さと子」さんと共に、「平凡」創刊号のグラビアに紹介されるなど、メディアに大きく取り上げられ注目された。

 

 

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●リブに「気づく」瞬間

 

 

入社したのはテレビが始まって6年。現場が全員20代という新しい職場でした。ただアナウンサーとしての喋りを、女ということで制限されましたね。その服装は女らしくないとか。女はもう少しお辞儀を深くするもんだとか。それから男と女のアナウンサーが2人いたら、男より先に発言するなとか。 

 

そうそう、1番バカバカしいこと言おうか。スイカの見分けの上手なおじさんていうのがゲストで来たんですよ。それで、『じゃあ切ってください』って言えばいいんだけど、切るっていうのは何となく痛い感じがしたんで、『じゃあ、開いてください』って言ったのね。そしたら終わってちょいちょいって課長が呼ぶのね。何言われるんだろうと思ったら、「女が開くって言葉を簡単に口にするな」って。 

 

面白いでしょ。私もその時びっくりしちゃって。すぐわからなかったの。それはすごく極端な話だからよく覚えてるんだけど。別に女の特権じゃないのにね、「開く」って(笑い)。 

 

私は「リブに気づく」って言い方をするんだけど。どうしてリブに気づいちゃったかっていうと、女子アナウンサーっていう風な扱われ方で始めはニッコニコしてるでしょ。でもその内に自分が合わなくなってくるのね。自分のいろんな行動に全部チェックが入ってくる。変だなぁと。その辺が始まりだと思うのね。

 

 

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●結婚、出産。女がぶつかっていく壁 

入社3年目に結婚をしました。相手はその時の担当番組のスポンサーの宣伝部の人でした。まわりのアナウンサーは、ほとんど結婚で辞めていたけれども、辞めるなんて考えもしなかった。子どもを産んだのは2年後。放送局に勤めていた女性で、出産後も辞めなかったのは、私が初めてでした。 

 

とにかく、子ども産むのは大騒ぎだったの。そんな話聞いたことないって。家庭とか結婚とか子どもとか。女が仕事をするというのは出産をしない、ということだったの。両方なんて考えられないって、まったく頭からの反発でしたね。みんな、お腹の大きな女とどう仕事していいか、分からないのよね。 

 

結婚しても、出産しても、仕事を続けていく。それを認めさせるため一つ一つぶつかっていく中で、一体女って何だろう、一体なんでこんなに壁が、ハードルがあるんだろうと思いはじめました。 

 

就職すればね、男も女もひとつの道がすぅーっと真っ直ぐにあると思ってた。それが、仕事以外のところで、いちいち社員としてのお前はなんだ、女のくせにとか。何で女はそういう存在に扱われるんだろうと。 

 

『女性史研究会』つくったのはその頃。リブよりずっと前のことです。一緒にやってたのは、秋山洋子さん(注)、ディレクターの板谷翠さん(注)。日本テレビの会議室を借りて、歴史の本を読んだり、研究発表したりしていました。みんな結婚していて、子どもを持っていて忙しかった女たち。何かをせずには、いられない思いで集まりましたね。 

 

注)秋山洋子 1942年生まれ 中国文学・女性学専攻 駿河台大学 「女に向かって」(インパクト出版)/「リブ私史ノート」(インパクト出版)など著書多数。

注)板谷翠 テレビディレクター。1972年まで日本テレビ勤務。

 

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●『ウルフの会』結成

 

1967年 アメリカで「ブラジャー焼き捨て事件」が起こる。メディアはこぞってこの「事件」をセンセーショナルに、面白可笑しく報道していた。70年優生保護法改正を契機に、日本でも大規模なデモが起こる。一般に、リブの幕開けとされる。

 

1967年、ニュースでアメリカのウーマンリブのブラジャー焼き捨て事件を知ったときは、本当に衝撃でした。女を捨て、女のシンボルを捨て、女で生きるよ、というメッセージ。あれは、女を読み直す新しい運動だと、直感しました。あれはね、ブラジャーを本当に脱げ、と言ったわけじゃないの。そう思ってたの? 違いますよ。マスコミはそんな風に報道して、過激さを煽っていたけれど。ブラジャー、必要な人は必要でしょ? 

 

やがて、「女性史研究会」をいわゆるリブの女性解放運動準備会と改め、のちに『ウルフの会』(注)と名乗るようになるメンバーと合流しました。私と秋山洋子さんと板谷翠さん。それから、誰々の友だち、大学時代の後輩、先輩、という風につながって人数が増えていった。後の中ピ連の榎美沙子さん(注)も最初のメンバーでした。 

 

他に、松井やよりさん(注)でしょ。あと中央公論の湯川有紀子さん(注)。それと岩波書店の田畑佐和子さん(注)と島崎道子さんと。マスコミで働いている、結婚している、子どもを持っている女たちが集まった。 

 

松井やよりさん、昨年亡くなったね。彼女が箱根に別荘持ってたのね。ある時そこに皆で集まって、一晩喋り続けようということになって。その時にね気が付いたんだけど、全然写真撮ったことなかったわけ。1枚くらい撮らないと私たちの記録がないって話になって、みんなで写真撮ったんですよ。もうこれは記念すべき写真なんだ。『女性は太陽だった』って。あの時は、何となく青鞜になった気分でしたね。 

 

注)「ウルフの会」 テレビ局と出版社で働く女性たちを中心にした活動グループ。アメリカ・ウーマン・リベレーション・レポート『女から女たちへ』の翻訳本の出版などを手がける。仕事を持ち、結婚している30代女性が中心となった「中年リブ」グループの第一線で、メンバーそれぞれが、様々なメディアで独自に発言、活動していた。「ウルフの会」とはメンバーの1人がヴァージニア・ウルフの熱烈なファンだったことからつけられた。

注)榎美沙子 ウーマンリブの代表格としてメディアにセンセーショナルに取り上げられるが、「あの人はリブではなかった」という、元リブからの証言が多い謎の存在。ピンクヘルメットをかぶりピル解禁を求めての運動や、浮気した男性の会社にピンクの軍服でかけつけるなど、「過激」な行動で話題に。1977年の参院選に「日本女性党」として10人の候補を出すものの、全員落選。これを機に運動の舞台からは姿を消した。

注)湯川有紀子 中央公論社 「中央公論」元編集長。中央公論社の長い歴史の中で、編集長に就いた女性は湯川さんが初めてである。

注)松井やより 1961年朝日新聞社入社。退職後アジア女性資料センター代表。『女たちのアジア』『女たちがつくる アジア』(共に岩波新書)など著書多数。2002年死去。

注)田畑佐和子  岩波書店退職後、早稲田大学、東京大学教員。専門は中国文学。

 

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●今の自分を見つめる『ウルフの会』

 

当時は、コレクティブがはやっていたのね。女が共同生活する場所。私有財産をなくして、皆が稼いできたのを全部同じ所に貯めて。だから共産社会ですよ。皆が同じ家で暮らすっていうコレクティブ。あれはやはりあのアメリカのリブで、一種尖鋭的なグループでやってたでしょ。それに憧れる人たちが多かったのね。田中美津さん(注)のリブセン(注)も、いわゆるコレクティブ的な要素が強かった。

 

私たちは結婚してて、他のリブのグループよりも年齢が高いから、しかるべき会社でしかるべき役職を持ってたりするわけ。小さな役職だけど主任とか。そう簡単に仕事をやめたくないのね。結構給料も高いし。家庭はあって子どもはいて。だからコレクティブは魅力的だけど、現実的ではなかった。

 

それにコレクティブがそんなに楽しいとも思えない。私たちが考えついたそれに対抗する理屈としては、自分の亭主を改造する。自分の娘をリブにする。こういう自分の周辺、仕事仲間をリブ化する。そういう生活を全部作り変えちゃう、文化を作り変えちゃう。産むとはどういうことなのかとか、結婚とはどういうことなのかとか。言葉の読み替え作業みたいなことを議論していましたね。

 

ウルフの会のメンバーは、当時はほとんど全員結婚していました。リブを経て、離婚したのが松井さんと私、板谷翠も離婚した。3人離婚してます。残りは結婚したまま。したままって言い方はおかしいけど、継続できてます。全員結婚してたんですよ。一人者は…榎さんとあと二人かな。

 

榎さんは、木夏さんていう恋人がいたの。だから「榎」というペンネーム。結婚はしてないと思う。その後に、たぶん一緒になってますね。それで彼女が色々な運動をやった時、パートナーの方は時々コメントを出してましたよね

 

当時の松井やよりさんがどんな人だったか? 彼女はまさにバリバリの新聞記者、そして運動家ですよね。彼女のエネルギーと彼女の意識の高さと行動力、インターナショナルに動く人ってことで尊敬してました。ある時彼女がね、『リブってやると、恋が出来ないよ』って言い出して。 

 

彼女はね、かわいい人なんですよ。かわいらしい人なのね。本当は甘ったれなの。運動してる時はすごく強いんだけど、女としては甘ったれ。『いや~ん』とかすぐ言うの。だから私はすぐに真似して『いや~ん』ってふざけたりしてたの(笑い)。 

 

注)田中美津 リブの代表的人物。代表作「命の女たち」。

注)リブセン 「新宿リブセンター」の略複数のリブグループが拠点にしていた場。「緋文字」「東京こむうぬ」など、20代前半の女たちが集まり、日本のリブ運動の要的役割を果たした。

 

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●生身のまま、発言する


色んなリブグループがありましたから。「ウルフの会」にこだわっていたわけではなく、1人で色んなグループに顔を出していました。とにかくいつも動いていたから、パンツをはいていて仕事して、仕事が終わった後にはリブセンや、ウルフの会や、他の勉強会に顔を出してました。パンツはいてる女子アナはいない? そうなの今? スカートはいてリブやるわけにもいかなかったんだけれど(笑)。パンタロンはいてたのよ。あの頃は家に帰ったら帰ったで娘と、リブについて議論しあったりしてね。小学3年生頃だったかしら。「男とは何だ、女とは何だ」って話したりしてましたね(笑い)。毎日毎日が充実して、とても忙しかった。 

 

その頃から、雑誌などに原稿を書きはじめました。『労働問題』という日本評論から出てるのに『私のリブ宣言』というのを出して。『流動』って雑誌に『ウーマンリブの目』という連載のコラムを書いたり。原稿書くときは、日本テレビアナウンサー村上節子と署名していました。そうしたら、「日本テレビのアナウンサーがこんなことしてていいのか」って報道へ持ち込んだある評論家がいたの。それで報道で会議やって、あんなの出さない方がいいんじゃないかみたいになってニュースから外された。そうね、昭和49年(1974)のことです。 

 

ウルフでも自分の名前を出す人と出さない人がいたんですよ。私、ペンネームっていうのがよくわからない。ペンネームでリブって、意味がない。リブは、生身の自分が発言する、まさにその事に意味がある。だから私はペンネームを使う気は全然、始めからなかった。多いですけどね、ペンネーム使ってる人。そういえば田中美津さんも、榎美沙子さんも、ペンネームだけど・・・。 

 

そう、美津さんがペンネームを使ったのは、やっぱりそれは学生運動してる人の感覚でしょうね。学生運動っていうのは反社会的な運動。だから「潜る」って言うのよね。でも、私は毎日会社に通ってるわけじゃない? 潜れない。だから、潜らないで、表に出ているところで、話して、表現して、勝負してたの。もちろん、美津さんは顔も出してるし、「田中美津」でずっとやっているのだから、もうあの人は「田中美津」以外の何者でもないわけですけどね。

 

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●リブで集まる女たち

 

田中美津との出会いは『流動』という雑誌の座談会。まだリブの運動がまだ目新しい時代でした。 

 

その時まだ美津さんは初期の美津さんだから。いわゆる運動理論で全て切っちゃっていた。私は男と女はそりゃ階級というのは一部であるでしょうけど、そこから話をしてて階級をひっくり返したって、どこまでいったってこれはまた次の階級を生むだけだ、そういう難しい話はやらないって言ったら、その時は話がかみ合わないと怒って、彼女は出て行っちゃった。 

 

だけど後日、彼女は日本テレビに訪ねてくれて、とにかくもう一度話をしようって話してから仲良くなったのね。それからリブセンに訪ねていって。リブセンに美津さんはたいていいないのだけど、そこに行くといろんな人に出会ってつい話し込んで、を繰り返して。そこに来ていた緋文字ってグループが特に中絶の問題をすごく丁寧に追っかけていて。そこで随分、産む性という、産む産まないは女が決めるみたいな。そういう話をその緋文字というグループとしてた。

 

いろんなグループがそれこそ各地であったでしょうね。大阪とか京都とか千葉とか。千葉にいた佐伯洋子さん(注)が随分熱心にいろんなパンフを出していらして。私にも送ってくださって。あの人は今、どうしてるだろうね? 

 

 

注)佐伯洋子 「日本ウーマンリブ史」溝口明代・三木草子らと編集。リブ時代のビラやグループのパンフを集めた歴史に残る資料本。現在も、女性運動に深く関わり、リブ時代の空気を後に伝える貴重な存在。

 
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●新しい「女」運動

 

リブは急速に全国に広まりましたが、リブを一番最初に新聞に載せたのは朝日新聞の蜷川さんという記者でした。彼が方々を歩き回ってて、そういうことをやってる女を次々に記事にしてったの。その中に私たちのウルフの会もあるし、美津さんの会もあるし、それから小沢遼子さんもいる。 

 

リブはね、それまでの婦人運動とは、まったく違っていたんです。「おんな運動」なんです。それまでは「婦人運動」なのね。だから、私たちがいろいろやりだした頃に、婦選会館の市川房枝さん(注)てわかります? わかりますね。彼女を中心にした婦人運動の人たちに質問されたことがあるんですよ。「自分たちがずっと女の運動を担ってきた」と。「私たちのでない女の運動とはどんな運動なのか」って。 

 

市川さんに? いえいえ、市川さんに聞かれたんじゃなありません。神様みたいな人だから、なかなか会えない。周辺にいた人たちです。市川房枝さんを支えて、婦人運動をしていた方々。皆、しっかりした立派なおば様たちでした。しっかりと女の意識、権利というものを育ててきた、意識の高い方たち。彼女たちが言うんです。「自分たちがやってきたものと、今の若い女が大きな声で言ってるのは一体何が違うんだろう」と。 

 

一生懸命説明しましたよ。「意識が変わるんだ」と。「意識を変えなきゃ何も変わらないんだ」と。今までの運動は、女の権利拡張運動。これからは、意識を変えるんだ、って。女の意識が変わらなくちゃならない、その周辺の男たちの意識が変わらなければならない。 

 

なぜそれまでの婦人運動にピンと来なかったか? 私、「運動」っていうのが好きじゃないのね。結局、自分の言葉で、自分が楽しく、自分が気持ち良く変えていこう、というのが根っこにあるんです。だからリブがピッタリ来たのね。 

 

 

注)市川房枝 教員、新聞記者を経て、1924年婦人参政権獲得期成同盟会を結成、婦人参政権運動を展開。日本の婦人運動の中心的人物。

 

 

 

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●榎美沙子の思い出

 
リブはみんな本音で語ろうとしていたの。そういう意味で言えば、リブの中心人物とメディアで取り上げられた榎さんとは、気があいませんでしたね。あの人と話していても、何か表面的にさーと逃げられるような、そんな感じでした。マスコミにアピールするのはとても上手な方だったけれど。ピンクのヘルメットをそろえたり、ピンクの軍服をつくったりして。 

 

ウルフの会で榎さんとやったのは、ピルの試飲テスト。彼女が厚生省関連の医者からピルを大量に仕入れてきて、あるいはただで貰ったのかもしれない。未承認の薬ですからね。それを私たちに配って、実験したの。1ヶ月じゃあ意味ないから3ヶ月飲みあってお互いに体の感覚を、報告しあったのね。ところが、榎さんが「ウルフの会」の名を使って、1人でピルを推奨するようなパンフを創ってしまった。その事をキッカケに、榎さんとは決別することになりました。 

 

ピルをテストしてみて、ピルにはやっぱりノーと言わなければいけないんじゃないか、と私たちは結論づけたんですよ。それを書いたんです。『婦人民主新聞』(注)に。それからまたいろんなグループから呼ばれてピルの話をしに行ったりしたんですよね。その辺りから、それこそセックスってものに関心を持つようになったのね。女の、自分の性のメカニズムみたいなのを。

 

その後は私はいわゆる女の運動よりも、女の身体みたいなことばっかりを自分のテーマにしていたんだけど。だんだんと、女の運動から離れて自分で勝手に書いたりしてたみたいな時間になっていって。「ウルフの会」は結局、それでも会合は持ってたんだけど。何年続いたのかな? 3年ぐらいは続いたのかな? 

 

まず秋山さん夫婦がロシア、ソビエトに行っちゃったのね。そういう風に皆、それぞれどっかに行っちゃうのね。私は私で会社とケンカすることになっちゃたりね。そうなってったのね。それぞれに皆つまんないことに忙しくなっちゃって。だから「ウルフの会」はなんとなくフェイドアウトして。一方、田中美津さんのリブセンの方は細かく分かれていったね。

 

節子さんは、その頃「子宮」「セックス」にまつわる原稿を様々な媒体で書いている。伊丹十三と「セックス」についての誌面対談をしたり、「女の問題」「リブ」などを取り上げる番組にコメンテーターとして出演することもあった。 

 

 

(注)婦人民主新聞 1946年創刊。91年より「ふぇみん」と改名。行政や各国、全国の女性情報をいち早く取り上げる「女の新聞」。

 

 

 

 


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●国際婦人年メキシコ大会に出席

 

誰にでも頼まれたことじゃないんだけど。日本のリブというのが中々根付かない。承認されないのに苛立ちを感じるようになっていきました。だからとにかく普通の女が、特別な女が特別なことをするんじゃなくて、普通の女が意識の中で私リブだという人間を増やしたかったのね。だから割と夢中で動き回ってた。ちっとも実らないけど。 

 

そんなとき、1975年、国際婦人年(注)の第一年目にメキシコで世界中の女たちが集まるというニュースを知ったの。どうしても取材したかったけれど、会社は私を出すわけには行かない、という。向こうに行って石でも投げたら大変だ、と(笑い)。だから色んなところにかけあって、どうせ行くならと、実費で娘を連れて行きました。 

 

とにかく世界で初めて、女が、女って意識で集まったわけでしょ。メキシコシティ中がね、本当にそこら中に女の大会の旗が立ってるみたいな。とにかく町中で大祭り。政府主催の会合だけじゃなくて、NGOがめっちゃくちゃ多いの。そこら中で会合をしてるの。小さな喫茶店でやってるのもあればレストランでやってるのもあれば。会場借りてやってるのもあり。 

 

言葉はそうそうにはわからないんだけど、とにかく面白い。何言ってるかわかるんですよ。 ベティ・フリーダン(注)? ええ見ました。貫禄あるおばさんでね。まず大きい。背丈はそんなに大きくないんだけど。椅子に座ってるだけで存在感があるっていうのかな。その時ベティ・フリーダンは50代後半ぐらい? とにかく貫禄。全米の女どもを率いてるという絶大なる自信が溢れてて。ゆっくりとした低い声で、ちゃんと笑わせながらね、ゆうゆうと話すんですよ。それで皆が素直に一斉に頷いて聞いてる。 

 

ただ、私はすぐ飽きちゃったんですよ。だから、この会はもういいやってすぐ出ちゃった。他の刺激が強かったから。南北問題から、女たちが分断されている状況、アジアの女性が少ないこと、色んなことを考えさせられた。1週間で走り回るので、本当に大忙しだった。 

 

日本からは結局50人くらい行ったんですね。結局、その後、田中美津さんはメキシコに移住して、リブセンは閉館して、それと同時にリブの運動も失速していってしまいました。 

 

 

注)メキシコ会議 国連は1975年を国際女性年と定め、メキシコシティ(メキシコ)において国際女性年世界会議(第1回世界女性会議)を開催した。133ヵ国の政府と国連の諸機関が参加し、女性の平等・開発・平和への貢献のためのメキシコ宣言、219項目からなる「世界行動計画」を採択。1975年の国連総会は、この「世界行動計画」に基づいて、1976年から1985年までを同行動計画その他の実施のための「国連女性の十年-平等、開発、平和」と宣言し、中間年の1980年に世界会議を開催することを決定する。

注)ベティ・フリーダン アメリカリブのリーダー的存在。著書の『新しい女性の創造』 はアメリカにおける女性解放運動の原点ともいえる、超ロングセラー本。1966年 NOW(National  Organization for Women)を設立。NOWは現在アメリカのフェミニスト団体としては最大級の規模を持ち、その発言の影響力は大きい。 

 
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●『容姿と声の衰え』を理由に

 

アナウンサー17年、やったんだけどね。最初の10年間は、まさにリブの真っ盛り。72,3年くらいまではまだまともに仕事をしてたけど、74年にニュース番組降ろされ、75年にメキシコ行って、帰ってきたら「容姿と声の衰え」を理由に配転を言い渡されました。それをきっかけに、会社を相手に裁判(注)を起こしました。 

 

裁判も大変でしたが、周りの人からの中傷がこたえましたね。友だちだと思っていた人が、「若い人に仕事をゆずれ」と週刊誌にコメントしていたり、「アナウンサーとしての能力」について批判されたり。特に週刊新潮はひどい記事を書いていました。あの時名刺もらった記者が、今もいて、しかも相当えらいポジションにいるらしいのね。 

 

結局、裁判には勝ったの。本当は勝っても負けてもそこで辞めようと思ってた。ただね、勝ったら勝ったで、会社とケンカをしてもこんなに楽しく会社員できるよ、というのを見せたい、という思いになってしまった。だから、結局裁判してから10年、日本テレビで働きました。いつも「もう辞めよう、もう辞めよう」って思いながら(笑い)。 

 

新しい職場は、CMを制作する現場でした。そこでプロデューサーとして働いていたの。新しい職場は刺激的でしたよ。カンヌのCM映画祭にも行ったし、賞ももらったこともあります。私が創ったもので一番有名なのは、「覚醒剤やめますか? それとも 人間やめますか?」 あれはたくさんの方に覚えてもらったね。人事の人には、「プロデューサーの方が向いている」って言われて、頭に来たもんだけど(笑い)。 

 

結局、CMプロデューサーとして10年働いて、ちょうど50才で早期退職したの。会社を辞めたのは、会社が若返りを計っていて、50才までに辞めると退職金を増すって言われたから。もちろん働き続けた方がお金は入る。それでもね、もう、いいかな、と。自分の時間が欲しかったのね。それまで、ずっとずっと働き続け、闘い続けていたから。さぁ、これからは1人、ノンフィクションを書こう、って思った。 

 

 

(注)産経新聞がまずこのニュースを取り上げ、雑誌やテレビなどで話題になった。大方、節子さんに同情的で、日本テレビを批判する内容のものが多かった。その中で、『週刊新潮』は節子さんの「容姿」が問題なのではなく、「中身」「資質」の問題なのだと主張。『女性差別』など女自身の被害妄想であり、あたかも『公正』な競争のもと『公正』な判断が行われていると勘違いしている『男』ならではの論調は今も昔も。 

 

 

 

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●総一朗との結婚

 

籍を入れていた相手とは、ずっと別居していたの。私はいつ離婚してもいい、と思いながら、アナウンサーはやっぱり自由ではないのね。結局、籍はぬかなかった。でも、退職したし、むこうの相手の女性に子どもができて幼稚園に入園することをきっかけに離婚しました。娘も就職したし、これからはやっと自分1人の時間になるんだって思ってた。 

 

ただ、時期を同じにして、総一朗が入退院をくり返しちゃったのよね。見ていられなかった。総一朗の事務所に行くと、名刺が20年分ぐちゃぐちゃにたまっている。その整理をしたり。例えば、総一朗が原稿を書いているときに「エリザベス・テイラーの生年月日はいつだったか調べて」と言われれば、当時は護国寺に住んでいたけど池袋の大きな本屋まで行って、本棚の一番上にある映画人物百科みたいな分厚い本を取って、それを読んで頭に記憶して、本屋を出てから急いでメモして、それから総一朗に公衆電話で電話する。それだけでもう1時間はかかっているでしょう? 今じゃインターネットで一発だけれども。

 

そんな風に仕事をしていたら、自分のことをする時間なんてない。自然に看護婦になり、総一朗のマネージャーになっていました。お金? 総一朗には、日本テレビを辞めて、あなたのマネージャーをやってるんだからお給料を支払ってくれ、と言いましたよ。でも、総一朗は「一緒なんだからいいじゃないか」と。でも、そういうのは嫌なの。だから、事務所をつくって、会社にして、田原総一朗事務所の社長として、今まで仕事してきた。 

 

総一朗は、私が総一朗のマネージャーとして仕事をしてきたことを、ものすごく申し訳ながっているの。結婚しないで、私が自由にものを書いていけば、けっこういい線いったよ、と誉めてくれるんだけど。私はとりあえず、総一朗に惚れ込んじゃったからね。ああいう仕事の仕方は、そうとうスタッフがきっちり抑えないとあぶなっかしくてしょうがない、みたいなところがあって。 

 

今、私はなにもしないで病気してるだけなんだけど。でも、病気したおかげで、ああいう本を書いた。あれ病気しなかったら書いてない。病気しなかったら、あなたたちにも会ってない。あの本のおかげで、いろいろな人に巡り会えているわけ。今、できる限り、しゃべっていこうと思うし。書いていこうと思ってます。 

 

 

 

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●女とは何か? その答えを求めて走り続けた


今の時代、女にとって良くなってるのか? うーん。会社によって新しいの、古いのあるけど。あまり変わってないね。世の中の、法律とか、社会整備はされた。だから、女の子が何かをやろうと思って本気で動き回れば、そんなに邪魔するものはないはずだけれども。

 

私が会社を辞めた86年は、ちょうど男女雇用機会均等法が施行された年。嬉しかったですよ。女の自由を規制する枠組みが、なくなった。私たちの頃は、社会の枠組みが、女の生き方を規制していたのだから。そんな社会の枠組みはない方がいいに決まってる。 

 

ただ、会社とか、官庁とか、そういうところが一番後からやってくる。たとえば医者の世界もね。女の医者もすごく増えているけれど、その方たちが、ステップをふんでいく間に邪魔がないかというと、そんなことはない。組織の中は非常に難しい。 

 

それでも今は、時代の破け目っていうのは、すごくあると思うの。私たちの時代には、ガッチリ、社会というのがつくられていて。それを壊すのは難しかったけれど。今は破れ目というのが、そこらじゅうにあるのだから。 

 

結局リブがああいう形で、ほとんど今の娘たちの世代にはぜんぜん意味が伝わっていなくて、榎美沙子さんの名前だけが残ったみたいなのがあるでしょう。そういう意味で、そうだったんだな、とへんに納得しちゃったり。やれなかったんだなって。でも、70年から75年のリブ5年から30年たって、あなたたちみたいな人がでてきているのね。本当、目の覚める思いがする。時代って面白いわね。 

 

私にとって、女とは何だったのか。それは今でも考えているの。私たちは、上野千鶴子さんたちの世代に、リブのバトンを渡せなかった。それでも、何もバトンを渡していないのに、上野さんは出てきた。そして、誰からもバトンを受け取っていないあなたたちがまた出てきた。 

 

「女とは何か」私はその答えを求めて走り続けたけれど、不思議なもので、そういう女はやっぱり出てくるのね。根底のところで、社会がまだ変わっていないということなのかもしれないわね。

 

 

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インタビューは結局10時間近くに及んだ。節子さんの幼少時代、戦中、そして有名な童謡歌手だった妹さんのこと、中学生で亡くなった大好きだったお姉さまのこと、戦後の有楽町の景色、ハーシーズのチョコレートの味、初めて食べたラーメン。節子さんは、私たちに様々な景色を見せてくださった。節子さんの人生は、戦後の放送界の歴史であり、女の働き方の歴史そのものだ。

リブ仲間の秋山洋子さんは、節子さんを評してこう言っている。「なににおいても、パイオニアのリブだった」と。 

 

「節子さんは、ずっと動き続けてるんですね」そう言うと節子さんは「あ!」と声をあげた。「その言葉、気に入ったわ。そうなの、私はずっとずっと動いてきたのね。止まることがなかった」と。20代、30代、40代と「男社会」と闘い続けてきた節子さんは「今は、もう、闘うのは、疲れる。もういいや、という気分なの」と言いながら、それでも、動くことを辞めない。重い病気の中、執筆し、そして、私たちに時間を割いてくださり、毎日のように何らかのスケジュールを入れているという。

 

さて。私自身の問いかけは。「看護婦? 秘書? それでいいの?」というものすごく失礼な問いかけに対して、節子さんは笑う。「惚れちゃったからね」 正直、まだモヤモヤは残ってる。ものすごーく残ってる。失礼な話しだ。それでも1つ分かったのは、節子さんがしてきたのは「秘書」という範疇に納まるものではないこと。節子さんが「プロデューサー」として、完璧なまでに総一朗氏の仕事をサポートしてきたのは、総一朗氏自身が本の中で証言している。

 

節子さんが会社を辞めたのが1986年末。総一朗氏の「朝ナマ」がスタートしたのは翌年の1987年。「サンプロ」が1989年。総一朗氏が誰もが知るテレビ人になっていった軌跡が、節子さんとの生活と符号するのは偶然ではもちろんない。 

 

節子さんのプロデューサーとしての才能に感嘆しながらも。そう考えたとしても、「もし節子さんが男だったら? 総一朗氏が女だったら?」と考える私の妄想は、また別の機会に。

 

節子さんは現在自宅で療養している。先日「今度バイブを見に行くわね。車椅子でも行ける?」と、お電話をいただいた。「人間を生かす内臓には転移していないから、いくとこまでいくわ」と力強い声でお話して下さるのを聞くと、節子さんが重いガンを患っていることをついつい忘れてしまいそうになる。記憶力が恐ろしいほどに良い節子さんは、まるで歴史のレコーダーのよう。「へぇ、もっと教えてくださーい!」と何度も通いたくなってしまうのだった。 「キリがないので、一度、今回、ここで切ります」と、切り上げてきた10時間分のテープをもとに、一応、今回はここまで。

 

2003年 インタビュー・構成まとめ 北原みのり

 

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10年後に。

節子さんが亡くなって、今年で10年になる。

今でも、節子さんのこと、時々、強烈に思い出す。

亡くなる1年前、私たちは、濃密に語り合い、互いの人生に触れあった

 

インタビュー当時、私は32歳。節子さんの「悔しさ」を私の「悔しさ」のように語りたがっていた。

今、40代の私は、このインタビューをしていた時の自分の熱さや怒りとは、また少し違うところにいる。消えた、というのではなく、色々と言葉と仲間と経験を得た故の、違う場所に立っているような感覚。そのことを「よかった」と思いながらも、今、節子さんと会いたい。そして今更ながら、一面識もなかった私に会って下さり、心を開いて下さり、言葉を紡いで下さった節子さんの大きさへの憧れを、深めている。

 

節子さんのことは、「メロスのようには走らない ~女の友情論~」で書いた

 

大切な大切な年上の女友だちでした。

 

北原みのり

 

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北原みのり

北原みのり

ラブピースクラブ代表
1996年、日本で初めてフェミニストが経営する女性向けのプレジャートイショップ「ラブピースクラブ」を始める。2021年シスターフッド出版社アジュマブックス設立。
著書に「はちみつバイブレーション」(河出書房新社1998年)・「男はときどきいればいい」(祥伝社1999年)・「フェミの嫌われ方」(新水社)・「メロスのようには走らない」(KKベストセラーズ)・「アンアンのセックスできれいになれた?」(朝日新聞出版)・「毒婦」(朝日新聞出版)・佐藤優氏との対談「性と国家」(河出書房新社)・香山リカ氏との対談「フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか」(イーストプレス社)など。

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