人権活動家で戦時性暴力生存者の金福童(キム・ボクトン)ハルモニが、今月の28日、93歳で亡くなった。金福童ハルモニは慰安婦だった自らの体験を世界各地で語り、日本軍「慰安婦」問題の解決を求めてソウルの日本大使館前で毎週開催されている「水曜集会」にも参加されてきた。
私は、2013年5月に大阪のドーンセンターホールで開催された集会と、2016年1月にソウルで開催された「水曜集会」で、金福童ハルモニの姿をお見掛けした。すでにご高齢だったけれど、とてもお元気で、力強く話されていたことを覚えている。大阪での集会は会場外で「在日特権を許さない市民の会(在特会)」らがヘイトスピーチを続け、反差別のカウンターたちがそれを制止した。
大阪で開催された集会は、日本軍「慰安婦」問題の解決をめざして、関西を中心に活動している「日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク」が主催した。毎月第一水曜日の夕方から、梅田のヨドバシカメラ前で集会を開いている。私もそこに、時々参加させてもらっている。とても大切な運動だと思う。
私は小学生の時、石坂啓さんの漫画で日本軍慰安婦問題を知った。一回り上の下の兄の読んでいた、ヤングジャンプか何かだったと思う。戦時性暴力、「慰安婦」問題の被害と加害を伝える日本初の資料館である、「女たちの戦争と平和資料館(wam)」に訪れた際に、その漫画と再会した。そのタイトルは「突撃一番」だった。「突撃一番」とは、旧大日本帝国陸軍で使用されていた避妊具の名称だ。
その漫画の最後に、こんなシーンがあった。同じ慰安所で働いていた、慰安婦の日本人の女性が、東南アジアのどこかの戦地で戦争が終わった知らせを聞いた後。朝鮮人の女の子に「これからどうするの?」と尋ねた。日本人の女性は、もちろん日本へと帰る。その女の子は服をはだけ、「こんな体で、どこに帰ると云うの?」とつぶやいた。その言葉が忘れられない。私はこの漫画を読んで、朝鮮人の女の子であることが怖い、と初めて思った。
また、私は「在日特権を許さない市民の会」と当時の会長だった桜井誠氏、そしてネットのまとめサイトの「保守速報」と裁判をした。無事に、2件とも全面勝訴に終わった。この裁判では、日本で初めて「複合差別」が認められた。私の場合は、民族差別と女性差別による「複合差別」だった。「日本軍「慰安婦」問題は、この「複合差別」の最たるものだと思っている。だから、これから先もこの問題をしっかり知り、考え、そして行動しなければいけないと思う。
ヘイトスピーチでもそうだが、戦争でも傷つき、殺されるのはいつも社会的弱者だ。女、子ども、老人、弱者が狙われる。大人になった今、朝鮮人の女の子が自分の属性を、その未来を怖いと思わないように。日本軍「慰安婦」問題日本軍慰安婦のハルモニたちは、私たちの過去でもあり、未来でもあるのだから。過ちを繰り返さないためにも。
金福童ハルモニは、2016年から在日朝鮮学校の学生6人に奨学金を支援していた。学校教育をまともに受けられなかったこともあり、日本政府から無償化を除外されている朝鮮学校に思いも寄せていた。昨年11月22日、入院している最中にも、在日朝鮮学校の生徒たちの奨学金に使ってほしいとして、3000万ウォン(約290万円)を寄付されたという。
前述の「関西ネットワーク」のある日本人のオンニ(朝鮮語でお姉さん)に、「オンニはなぜこの活動をするようになったの?」と質問したことがある。そのオンニは、「よくその質問をされるけど、理由なんかないな。女のたしなみや」と答えた。その言葉が、すごいなと思った。
そして、「私たちはよく、ハルモニたちを守っているように思われがちやけどな。違うねんで。ほんまは、私たちがハルモニたちに守ってもらってるねん」とも話していた。日本軍「慰安婦」問題に関わることは、自らの、女性としての尊厳を守ることでもある。
生前、金福童ハルモニは「死んだら、蝶になって世界中を飛び回りたい」と話されていたそうだ。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は29日午後、金福童ハルモニの葬儀場を訪れ弔問した後、弔客録に「蝶のようにひらひらと飛んで行かれますように」と書き残した。遺影の前で、床に膝をつき、深々と頭を下げた大統領の姿をニュースで見て、涙がこぼれた。日本政府からの謝罪を聞くこと無く旅立たれたことが、申し訳なかった。
金福童ハルモニは、私たちの心に、この社会に様々な種をまいた。それは、希望や平和、勇気や愛であったりする。その種に水をやり、育てて行くのは、残された私たちの役割だ。
金福童ハルモニ、安らかにお休みください。