2018年7月19日、衆議院議員の杉田水脈氏が『新潮45』という雑誌にて、「『LGBT』支援の度が過ぎる」という文章を発表しました。そこに書かれていたのは
「最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます」
「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」
といった、セクシャル・マイノリティが置かれている状況をまるで理解せず、「差別差別って騒ぎ過ぎなのよ! しかもあんたたちはお国のためにならないし!」的な内容でした。当然多くの人の怒りを買い、当事者団体であるLGBT法連合会からだけではなく、さまざまな抗議や批判が寄せられました。
最初の 「もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます」というのは、欧米の差別主義者の常套句である「私には黒人の友人がいます」と同じです。その属性を持っている友人がいたからといって、見えるのはほんの一部にすぎません。
またこの言葉は差別されたり、それにより傷ついている人の告発を「で? 私の友達はそんなこと言ってないけど? あなたの被害妄想では? もっと心を強く持ちなさい!」と、無力化する典型的なやり方でもあります。しかも実際に友人にいるならまだしも、「もし」で語られているので、想像に過ぎません。よくわからないセンスに落とし込んだレインボーグッズを身に着けて東京レインボープライドに現れた、正直「ちゃんと趣旨分かって来てる?」とツッコミたくなることうけ合いだった稲田某氏のほうが、現場に足を運んでるだけまだマシか……? という錯覚にとらわれてしまうほどです。
そして「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」
という言葉。『生産性=子供を作る』ということで考えたらLGBTだけではなく、老人や閉経後の女性、生殖能力のなくなった男性も該当しますね。しかしかつて子供を作ったことがある「お母さんとお父さん」は除外されるでしょう。となると障害を持つ人や独身・既婚関係なく子供を作っていない女性が、該当すると思われます。
げんに日本では1948年にできた優生保護法のもと、精神的な障害を持っていたことで強制的に不妊手術をさせられた人たちがいました。本人の意思に関わらず、そして障害があっても1人1人の人生は違うにも関わらず、『生産性がないのだから、生産してはいけない』と国家が勝手に判断していた時代があったのです。
私は子どもを産むことをせず、40代に突入しました。シルベスタ・スタローンの元パートナーのブリジット・ニールセンが先ごろ54歳で妊娠を発表しましたが、自分に同じことが起きるとは思い難い。それ以前に子供を持つ・持たないは当人の問題であって、それが天から与えられし女の役割なのだとしたら、今すぐ私は女をやめます。それぐらい産む産まないは個人的な問題であり、将来の税収のために強制されるものではない。それこそ女性は産む機械ではないのに、産まない=ワガママといった偏見も、根強く残っています。
では生産=出産した女性になら、税金は潤沢に使われているのでしょうか?
「結婚したい」ではなく「産みたい!」が来たから選択的シングルマザーを選んだ櫨畑(はじはた)敦子さんの『ふつうの非婚出産 シングルマザー、新しい「かぞく」を生きる』(イースト・プレス)によると、生物学上の父が認知していない状態で児童扶養手当の申請に行ったところ、「相手は何という名前なのか?」「いつ別れたのか?」「なぜ別れたのか?」などとプライベートなことを執拗に聞かれ、審査の結果、児童扶養手当を受けることができなかったそうです。
櫨畑さんは仲間とともに子供を育て、色々な「かぞく」の在り方について、気負うことなくこの本の中で思いを吐露しています。しかしそんな自分らしく子どもと向き合う櫨畑さんに、行政は辛辣だった。要するに国は「ひとつ屋根の下で暮らし法的な婚姻関係にあるおとうさん・おかあさんの間に生まれたおねえちゃんとぼく」みたいなのが生産性のある家族であって、それ以外は重要ではないと思っているようです。
もちろん杉田議員自身が差別的思想にまみれているとは思いますが、彼女が7月22日、
自民党に入って良かったなぁと思うこと。「ネットで叩かれてるけど、大丈夫?」とか「間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ」とか「杉田さんはそのままでいいからね」とか、大臣クラスの方を始め、先輩方が声をかけてくださること。
とTwitter上でつぶやいていたように(現在は削除)、さして変わらない思想を持っている議員が与党内にはザクザクいる模様。杉田議員は選挙区でなく、比例で選出されています。今の政治体制が続く限り、本人が辞めない限り再選される可能性は高いでしょう。
そもそも人間は生産性のあり・なしでジャッジされるものなのでしょうか? それこそがかつて「偉大なるアーリア人の帝国」を築くためにユダヤ人だけではなく障がい者や同性愛者、思想対立している人たちを虐殺した、ナチスの優性思想に繋がるのではないでしょうか?
「そんなオーバーな……」と思うかもしれません。まあ確かに、現代のこの日本でいきなり虐殺が起きるとは考え難いですね。では「子どもを作れる」「作れない」に始まり、「国家に従順である」「反逆的である」「高学歴」「低学歴」「高収入」「定収入」「体力がある」「体が弱い」などさまざまな条件によりスコア化されて、そのスコアが価値になり、常に順位を競う社会になる可能性はありそうです。スコアも絶対的なものではなく、収入が減ったりケガをしたり年を取って生産性がなくなっていくと下がり、公的支援がどんどん減る。異を唱えようものなら「給付内容は生産性に応じて、公平に判断しています」で終わり。……こんな社会で生きたいですか? 杉田議員と、彼女の発言をそのままスルーし続ける議員が与党にいる限り、こうなる可能性は否定できない。彼女の発言はその第一歩に過ぎないと、私は思います。
私は今日も小さなスペースで1人、生活をしています。その時々によってパートナーはいたりいなかったり。そんな生活を繰り返していて、そして今日も自分のためだけに冷やし中華を作って食べています。今後もそんな生活が、突然大きく変わることもないでしょう。このように生産性がない私だけど、これからもしぶとく生きていくと思います。
生産性があろうがなかろうが、私だけでなくすべての人が生きている。人生に正解はないけれど、唯一「生まれたから生きている」ことだけは正解だと思います。ということで今はまだ見ぬ同志たちよ、生まれたからにはしぶとく、ただ生きていくことを全うしよう。生産性があろうがなかろうが、生きる権利は誰にも奪われないことを証明するために。