財務省の福田財務次官のセクハラ音源公開が話題になっている。多くの人が、「ひどい」「下劣だ」「許せない」と怒っている。確かにそうなんだけど。でも正直、わたしは「この程度」のこと、「めっちゃよくある話」だと思ってしまった。そう思った女性は多いのではないか。酒の席でのこういう「冗談」めかした「セクハラ」はいまだにあるし、20年前なら、3歩歩けばそんな言葉が飛んでくるような状況で仕事していた女性も多いだろう。
もちろん、福田財務次官の場合は、権力関係がある。記者だったら話があるって言われれば当然取材に出かけるだろうし、それでこの発言は「完璧なセクハラ」で「アウト」である。でも、仕事関係の飲み会でこの手のちょっとしたエロめの冗談言われるとか、わたしですら(ですら、と言ってしまうが)ある。言われたことを周囲に話せば、「ひどい! セクハラじゃん!」と言われるが、しかしみんなが怒ると、なんだか逆に言った相手がかわいそうになって「いや、セクハラっていうほどのものじゃなくて…」と言ってしまう。そしたら友人に怒られた。
「そういうのを『セクハラ』じゃないってあなたが言うことは、多くの同じ目にあった人を黙らせることになるのよ!」
……。本当に、ごもっとも。その通りである。でも、どうして自分のことだとそう言いたくなってしまうのだろう。
正直、セクハラにはほとんど縁の無い人生だった(と思っていた)。痴漢にはあったことがある。通学の満員電車で、本屋で、学校の帰り道で。それは何度もある。小学校4年のときには、中学生に林の中に連れ込まれそうになったこともあった。恐いからいやだと言ったら「このことを親にいったらおめえのこと殺すからな」と言われた。中学生になって本屋で立ち読みしていたら後ろから男に体を押しつけられて触られた。振り返るのも恐くて走って逃げたら友人に会って、痴漢にあった、恐かった、って言った。次の日学校に言ったら「祝・マイノ痴漢に遭う!」ってお祝いされた。おまえみたいな女でも、痴漢にあったね! よかったね! って。
今のわたしならなんてひどいことを言うんだって怒れる。しかし13歳のわたしにとってはそれは強烈な「世間様」からのジャッジであった。生理もまだ来たか来ないかの、自分が女の体を持っているということの自覚もまだはっきりと持てていないようなころに、明確に他者から「おまえは(本来ならば)痴漢に触ってもらう価値もないものなのだ(つまり『女』ではないのだ)」という認定は、ショックとかひどいとかいう前に、「そうなのか、わたしはそういうものなのか」とわりと素直に受け容れるしかないものだった。それなのに体はどんどん女のソレになっていく。触る価値のないものを触る男たちに対して、わたしは、痴漢に遭いながら「こんなもの触らせてごめんなさい」って思うようになっていたと思う。痴漢に触られる不快さや恐怖よりも、文句を言ったら「誰がおまえなんか触るかよ、ブス」って言われるほうが恐かった。
こうやって書くとなんか深刻ぽいが、わりと自意識は軽やかだった。萩尾望都の『イグアナの娘』にちょっと近いかも。「あなたには女に見えるかもしれないが、イグアナなんで、間違って触らせてごめんなさいね」って感じだった。しかし、周囲の女友達が痴漢にあったりセクハラにあったりするのにはすごく腹が立った。「女の子にこんなことするなんてひどい!」と怒った。そう怒るときの「女の子」にはいつだって自分は入っていなかった。人のことだから怒れるんである。
そんな感じの10代20代だったから、わたしは「セクハラ」には遭ったことがなかった。セクハラは性的魅力がある「若くてきれいな女の人」に起こるものだと思っていたから。周囲の女性たちはたくさんそんな目にあっていた、仕事を評価されていると思っていたのに、ホテルに誘われて、断ったら縁を切られたり、悪口を言われたりする。みんな本当に傷ついていた。それこそが「正しいセクハラ」、堂々と怒りを表明して良いセクハラなのだと、ずっとわたしも思っていた。
思えば20代前半のころ、美しくて仕事ができて活躍していた職場の先輩に対して「彼女は仕事が多くあるのは美人だから。でもみんな内心彼女をバカにしている。その点あなたはちゃんと地道に仕事をしている。あなたみたいな人が伸びるタイプだよ」と「誉められた」こともある。そんな時ですらわたしは、先輩が侮辱されたことの怒りだけを感じていた。セクハラ、ひどい差別にあっているのは、先輩だけだと思っていた。自分が「美しくないから実力がある」と言われたことよりも「美人だけどバカにされてる」と言うことにだけ怒っていた。自分が「美しくない」と言われることに対して怒ってはいけない。怒ったらそれ以上の返り血を浴びるから。それは今思えば自分の心を守るための無意識の術だったんだと思う。
今思えばだけど、ミスコンなんか出たいとも出られるとも思っていないのに、無理矢理舞台に上げられて、「ハイ失格!」とジャッジされる。そんな日々を10代20代ずっと過ごしていた感じ。「女性らしい」身なりをすると、舞台に上がりたい人だと思われて「おまえなんか上がれると思ってるわけ?」という礫が飛んでくる。「わたしは舞台にあがりたい人間ではありません」を逐一アピールする以外に防護の道はなかった、と今は思う。自分じゃ長く気付かなかった。
そしてこれも今思えばだけど、わたしもそれなりに「セクハラ」に遭っていた。しかしやっぱりそこでも「あの〜、何か相手をお間違えではないですか?」という混乱で固まってしまって何も言い返せない。相手にはどう見えただろう。「ちょっとからかっただけなのにマジにとりやがってこのブスが」だろうか。「特に拒否されてないからこいつには何を言っても大丈夫」だったろうか。わたしはなんで、そんな目に遭いながら、セクハラをかます相手の気持ちを慮るのだろうか。流行の忖度?
さらにこれも今ならわかる。こういう「混乱」が起こって固まってしまうのは、「美人」「ブス」「若い」「おばさん」に関係ない。どんな女の人だって、多くの場合人間対人間として接しているつもりの相手に、突然そんなこと言われたら混乱する。そして、起こっている事実は自分の勘違いなんだと正常性バイアスが働く。「酔ってるだけで何か勘違いしているのでは」「深い意味はないのでは」「誰かと間違えている?」「もしかして自分が何か誤解させるようなことを言った?」そんな考えが頭をぐるぐる廻る。そして何も言えない。なかったことにするしかなくなっちゃうのだ。
世界中で起こっている #me too の波。詩織さんやアラーキーのミューズだったKaoRIさんの勇気ある告発。財務省の福田事務次官のセクハラ音源公開をした女性記者。今やっと多くの女性たちが声をあげはじめている。多くの人たちがそれに勇気づけられている。そして多くの男たちが、その勇気を讃えている。しかし、どんなことでもそうだけれども、ある問題が明るみになったとき、忘れてはいけないことは、そこに光があたったときに陰になってしまう人たちのことだ。「言えなさ」を抱えて黙り込む人たちのことだ。
詩織さんの勇気をリスペクトしている。しかし、彼女の勇気を讃える男たちには、彼女が若くなく、美しくもなく、才能もない、「50代のおばさん」だったらあなたは味方をしてくれましたか? と言いたい気持ちがある。ワインスタインのセクハラに声をあげた女性たちの裏に、彼らのセクハラに応じて、役をもらってなんとか生き延びた女たちも多くいるだろう。彼女たちは声をあげられているのだろうか。沖縄で米兵に強姦され殺された女性の追悼集会での「無垢な二十歳の女性が」という、本当に悪気のない心からの悼みの言葉にすら、封じられてしまうものが多くある。「黙れ」と言われるまでもなく、自らフタを閉じるものたちがいる。自分がフタをして封じ込めていることにすら気付かない人たちがいる。
4月7日に、ツイッターで「こあら」さんという方が「『ブス』にとっての #me too書きました」というツイートをしている。
(https://twitter.com/koarand827/status/982506987094081536)
14000の近くのリツイート、25000を超えるいいね、がある。たくさんの勇気ある告発の下で、やっと可視化されはじめた「me too」の裏には、おそらく想像を超える以上の不可視化されている「me too」がある。彼女はこれを「リア垢(本当のアカウント)」ではなく「分身」アカウントで書いたと記している。
彼女が誰であるか、どんな人なのか。掘りおこさなくていい。でも「me too」の告発を讃え、共感し、サポートしたいと思う多くの人たちには、可視化された問題によって、新たに不可視化される存在のことに少しでも思いを馳せてほしいと思うのだ。