無事に9月27日、対在特会と元会長の桜井誠こと高田誠氏との裁判の、地裁判決を迎えることが出来た。2014年の8月18日に大阪地裁に提訴して、それから約2年とちょっと。思っていた以上に地裁判決が早かったとはいえ、提訴しようと思ってからは約3年が過ぎた。提訴してから体重がたくさん減ったのはいいことなのか、悪いことなのか。提唱したレイシズムダイエットはみんなに不評で、ギャグとしても寒かった。左耳の聴力を失ったし、白髪は逆に増えた。裁判は、まあ美容に悪いね。
今回の判決は、支えて下さったみんなのおかげで迎えることが出来た。在日はもちろん、それ以上に日本人の友人がずっと一緒に居てくれた。女性だけでなく、男性も、LGBTの友人やほかのマイノリティの人々も。裁判の度に開いた支援者集会では、在日はもちろんだけどそれ以外の誰かの声を伝えたかった。ほかの誰かの声を聴くことが、在日朝鮮人の、女性の自分の声を伝えることじゃないかと思ったから。そして、弱者同士は連帯しなきゃとずっと思っていたし、知り合ったみんなから改めてそういうことを教えてもらった。本当に、ありがとう。
判決から2週間が過ぎた。まだまだ嵐の中にいるみたいで、この裁判が自分のことじゃないみたいにも思えて、時々ぼーっとしてる。そして、ほっとしている。京都朝鮮学校襲撃事件、徳島県教組襲撃事件に続いて、人種差別撤廃条約が引用され、民族差別は認められた。これまでの流れに続いた判決が出たことで、安心した。自分がこの良い流れを止めたらどうしよう、そうなるとヤバいと思っていた。「負けるわけはないけど、万が一…」と心配したり、自分の訴えがすべて棄却されたりする夢を何度も見てうなされた。目が覚めるたびに、怖くて泣いた。
また、ネット上で発せられたヘイトスピーチも歴然とした差別であるということが裁判で認定された。ネット上には、マイノリティへの差別があふれかえっている。それはアイヌであったり、沖縄であったり、被差別部落であったり。もちろん、LGBTや障碍者に対してもそうだ。自分の判例が、他の誰かの闘いの役に立てたらと願う。
相手方の主張が全面的に退けられたこと、法廷と云う公平な場所で、桜井氏の活動や発言が差別だと認められ不法行為に当たると認定されたことには、胸が熱くなった。また、自分の発言が公正な論評とされたことも、差別と闘う個人として、また、ライターとして自信にもなった。
しかし、女性差別であり、複合差別であることが判決で触れられていなかったのは非常に残念だ。ネット上でヘイトスピーチが行われた場合の被害の重大性、その拡散性についても言及が無かったことも物足りない。「裁判長が女性なのに、なぜ女性差別について触れなかったのか」と云う、支援者からの声を聴いた。「裁判長が女性だからこそ、贔屓ととられてはいけない。公平性を期すためにと言及しなかった」とか「女性は女性に厳しいものだから」とか。いろんなことは考えられるけど、自分としては女性差別と複合差別が認められなかったことこそ、この日本社会の現状を表しているのだろうなと思う。
京都朝鮮学校の裁判では、民族差別を認められた。それからヘイトスピーチ抑止法や条例が施行され、社会が動いている。けれど、女性差別に関してはまだまだなのかもしれない。女性ですら、その悪質性に気が付かなかったり、踏み込んだ判例を出すことに躊躇してしまったりするのかもしれない。どうせここまで闘ってきたからには、複合差別の判例を作りたい。
高裁判決ではもう一歩踏み込んだ判決をと、願う。京都朝鮮学校の裁判では、高裁判決は民族教育について、朝鮮学校を学校として認め、「朝鮮」と云う言葉を初めて判例で使用した。だから、地裁判決では物足りなかったとしても、その次に期待している。上瀧浩子弁護士は、今回の判決を受けて「民族差別と女性差別の複合は、足し算ではなくて掛け算」と話した。本当にそうだと思うし、被害当事者の自分の実感としては、損害賠償額もまだまだだ。次の被害者を出さない抑止力にするためにも、高裁判決ではさらに高額になればと思う。
自分が裁判をする前に、金稔万オッパ(朝鮮語で兄さん)がイルム裁判を起こした。職場で民族名ではなく、日本名を名乗らされたことについて争った裁判だ。その支援者集会の際に「ほろ苦い勝利―戦後日系カナダ人リドレス運動史」と云う本を知った。日系カナダ人は第2次大戦中、「敵性国人」の名の下に迫害・差別された。謝罪と補償(リドレス)を勝ちとり、カナダ市民としての誇りを取り戻すまでの不屈の闘いが綴られた本だ。
判決を受けて、自宅に戻ってしばらくしてから。頭があんまりよくないので、何度も判決文を読み返して、咀嚼しようとした。けれど、飲み込めなかった。判決の内容を噛みしめながら、ざらつくような味を感じながら、この「ほろ苦い勝利」と云う言葉が頭から離れなかった。在日朝鮮人と云う属性とともに、自分が大切にしている女性と云う部分。それが差別されたということ、その痛みが、判決文になかったことはやっぱり悔しかった。
さまざまなマイノリティが権利を勝ち取るために、これまで闘ってきた。それに比べれば自分の裁判は、ほんのささやかな勝利だ。けれど、それはまだほろ苦い。マイノリティが闘うことは、いつもこんなほろ苦さが付きまとうんだろうか。ううん、そんなんじゃだめだ。地裁判決の瞬間、法廷内では勝ったはずなのに、自分にも、支援者の中にも途惑いがあった。高裁判決では、もう一つの自分の大切な属性についても、勝利をつかめるようにがんばろうと思う。聞いた瞬間に、みんなが心の底から笑えるような、そんな判決が掴めるように。みんなの力をもう少しの間、貸してください。
勝利の美酒は、甘くなきゃね。