今年のアカデミー賞にノミネートされた俳優がすべて白人である――。そのことが「差別」であるとアメリカで大きな問題になっている。
そんなニュースを見て、胸を突かれる思いがしました。
アカデミー賞の候補者は毎年20人。その候補者が2015年も今年も、2年連続で全員白人だったことに、「マルコムX」などで知られるスパイク・リー監督が授賞式のボイコットを表明。監督だけでなく、他にも続々と抗議の声が上がっています。
デバ子が思ったのは、もちろん「女性の活躍」を絶賛推進中の日本のことです。
日本の国会議員のうち女性はわずか1割。経団連の役員は全員男性。会社のエライ人はすべてオッサン。考えてみるとわたし、すっごい差別されまくって生きてるんですよね。
ほぼ同数の人が生きていて、国民の代弁者であるべき議員や経営幹部が片方の性からしか選ばれない状況はやっぱりおかしい。
いや、ずーっとおかしいと思っていたんだけど、すぐに「なかなか女性自身が手を挙げたがらないから」と本人の主体性や能力の話にされたり、候補者に性別を当てはめるクオータ制の議論になると「女性だということでゲタを履かせてもいいのか」「男性差別だ」と声の上がる日本で、うっすら「性別ではなく能力で決めるべきだしねぇ。その意味で多少男性の構成割合が多いこともあるのかも」そんな気分でいた気がします。
ていうか、もし男しかいないことを問題にし出したら、怒りポイントが多すぎて身が持たない。だから怒らないようにしたり、目をそらすようにしていたのは自分の身を守る自衛手段でもあったのかもしれません。
でも、アカデミー賞のニュースを見て、ほぼ同数この社会に生きていながら、ある特定の属性の人しか選ばれないこと、そのものが「差別」なんだ、それは堂々と怒っていいことなんだ、ってなんか泣けてしまいました。
「ほんっと、ひどい世の中に暮らしてるよね、わたしたち」「もっと怒っていいんだよ?」って誰かに肩をぽんぽんって叩かれた気持ち、っていうんでしょうか。
抗議を受けて、アカデミー賞を主催する「映画科学アカデミー」は2020年までに選考委員を白人以外の人種や女性の数を2倍にすると表明しました。
選考委員の内訳は明らかにされていませんが、一部報道では、9割以上が白人、7割以上が男と言われています。
果たして2倍で足りるのか。それは分かりませんが、やっぱり変わるべきは、選ぶ側のメンバー構成なんですよね。
で、そこで見ていただきたいのが「かながわ女性の活躍応援団」のホームページです。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/0050/womanact/
ずらりと並ぶオッサンたち。その人たちに「女性を応援♪」って言われても、って感じなのですが、この応援団、そんな批判を想定してか、
〈女性の活躍推進に積極的で、神奈川にゆかりのある企業と知事で結成。男性の意識改革をうながす意図から、あえてメンバーを男性だけにした〉って書いてます。
男が変わらなきゃ行けないのはその通りなんだけど、県内の有力企業に声をかけたら、幹部は男しかいなかった、それが実情なんじゃないでしょうか。
変わらなきゃいけないのはメンバー構成そのものなはず。でも変えられない。
その意味でこの応援団、日本社会の縮図って感じがしますよね・・・。