ジメッとした曇り空から、今にも雨が降りそうな火曜日。
それなのに私、通勤ラッシュの激混み電車の中で背広の壁に挟まれながら、1人ニヤついてる。
だって、さっきから車内モニターに映ってる彼、超有名アスリートの四条丸走(しじょうまる・かける)。療養中のひとコマらしいけど、弾けそうに逞しい筋肉のカタチが丸わかりのユニフォームじゃなくて、スーツを着ているの!
185センチ、99キロと、聞いただけならズングリしていそうなのに、リネンのオーダーメイドらしいジャストサイズのジャケット姿は、本当にステキ。モリッとした肩も、山形食パンみたいに隆起が続く二の腕も、シャリ感のあるゆったりした布に包まれて、礼装の下に武器を隠し持った凄腕エージェントみたい。
音声のない動画の中で、彼がニコッと笑って何か言うと、ノーネクタイの衿から覗く喉仏が、キュッと上下する。試合や練習中の荒々しい動作のときは気づかない、小さな動きに、私のどこかがキュンとなる。彼、首が太いから喉仏があまり目立たなくて、なんだかすごく可愛いの。
この可愛い喉仏に軽く前歯を当てたり、舌先でチロチロしたら、彼、タマタマを愛撫されたみたいによがってくれるんじゃないかしら……。
そんなことを考えていたせいで、私、濡れちゃって。会社に着くそうそう、いつ誘われてもいいようにロッカーに常備してある勝負パンツに、履き換えるハメになっちゃった。
私の職場は、株式上場なんて間違ってもありえない中小企業。営業事務といえば聞こえはいいけど、意識低い系営業社員が作る穴だらけの契約書の修正にお茶出し、締め日が近づけばひたすら経費精算……『しがない』って言葉がピッタリの業務内容。
しかも雨模様の火曜日ときたら、テンションを上げろって方が無理な話よね。でも、そんなときほど内線が鳴って、
「応接室までお茶みっつ、冷たいのね」
なんて、課長のダミ声。
「へあーい」
私の返事はアクビまじり。
応接室に入った私は、お盆を取り落としそうになって、息を飲んだ。
課長と、その前に座る取引先の人が、小学生みたいに見える。そのくらい、ドアに近い方に座ってる新人らしき若い男の子が、大きいの。
ただ背が高いだけじゃない。厚みがあって、周囲の空気の温度がちょっと上がるくらい、パワフルな感じ。五分と三分の間くらいに刈上げたヘアスタイルに特徴はないけど、清潔感は充分。太く短い眉、ちょっと腫れぼったい一重まぶたが、全体の雰囲気にすごく合っている。
なんとか気を取り直してグラスをサーブすると、生返事のおじさんたちと違って、彼、私を見上げて
「あ、ありがとうございます」
と、ニッコリ。
どうしよう。笑顔が可愛い。
通勤途中に見た、四条丸の喉仏を思い出す。彼のソレは、いかにも新卒らしいネクタイに隠されて、見えないんだけど。
ダメ、ダメ、落ち着け、私。パンティの替えはもうないんだから、冷静にならなきゃ。
何とかお茶出しを終えたけど、そのまま席に戻る気にはならなかった。
1フロアに数社のテナントが入る、築40年以上の雑居ビルの共有給湯室で、ドキドキする胸を抑えながら、私は壁にもたれていた。
だって、タイミングがよすぎるんだもの。
あんなにも、四条丸を連想させるスポーツマンタイプのガチムチ年下チサラリーマンが、子犬みたいな目で私を見つめて……。
そのとき、給湯室のドアが開き、
「すみません……」
さっきの彼が、顔を覗かせた。大きな手には、みっつのグラスが余裕で収まっている。
「え、は、はいっ!?」
私の落ち着きは、一瞬で爆発。
「お茶のおかわりを……あの、ちょっと、大丈夫ですか?」
彼、グラスをシンクに置くと、壁にすがって震えている私に近づいてくる。近寄ると、やっぱりすごく大きい。190センチ近くあるんじゃないかしら。私の鼻先が、彼の胸ポケットより下にある。
分厚い身体、生命力の熱いカタマリが、私に迫る。彼のオーラが私の足にまとわりつき、這い昇ってくるみたい。
突然、両耳のそばで、ドン! と壁を叩く音がした。
彼、身体を屈めて、私に覆い被さるように、両肘から拳を壁に接している。
「……なんだか、頭がフワッとするような香りが……」
犬顔の彼が、猫がマタタビを突きつけられたようなトロンとした目でそう言った。
確かに私、濡れちゃうとフェロモンがスゴイって、今までの彼氏によく言われてた。落ち着いたつもりだったのに、私、またジワンと来てたみたい。
だけど、気が遠くなりそうな香りは、彼の喉元からも濃厚に漂ってくる。
ムスクや洋酒を思わせる、スパイシーな甘い香り。汗臭さとは違う、オスの香り。欲望の香り。
彼、私の鼻に自分の鼻先をあてて、私を上向かせる。鼻同士でキスしてるみたで、ものすごく興奮しちゃう。
「……なに、するの……こんな、ところで……誰か来ちゃ……んぁっ!」
最後は鼻声の悲鳴になった。彼、仰け反った私の喉を鼻で突き、それから噛みついて、吸い上げた。
乾いた唇と、熱く濡れた舌の感触。快感が頭に突き抜ける。彼は頭を動かし、今度は鎖骨に羽を当てる。そのままコリコリされると、胸の先へゾクゾクするような刺激が広がってくる。
「ダメ、ダメだったら……」
頭を振り、口ではそう言いながらも、私のメスの香りは、もう自分でもわかるくらい熱く、彼を誘ってる。
勝負パンツに換えてて、ラッキーだった。
「……だってもう、たまらないんです……こんなエッチな香り、初めて……」
彼、恍惚とした声で囁きながら、子犬が潜り込むように鼻先をグイグイ、私のブラウスの中に突っ込んでくる。鎖骨の下の、平らで薄い肌を、舌先でくすぐる。
「やぁん、これなに? こんな感じ、私だって……」
初めてだった。胸でもアソコでもないところが、こんなに感じるなんて、知らなかった。
私のおヘソ辺りに、彼の熱いモノを感じる。どうしちゃったの、私? おヘソまでが性感帯になっちゃった。
まるで、お互いの香りで魔法をかけあっているみたい。
私の手が勝手に動き、彼のネクタイを弛めようとする。
朝に妄想したように、可愛い喉仏にしゃぶりついて、彼にも同じ快楽を味わってほしかった。
『誰か来たらどうしよう』なんて恐怖は、落ち着きと一緒に爆発して、もう跡形もなかった。
ひんやりしていたはずの壁に、二人の熱が伝わっていく。足に力が入らなくなった私の脇を、彼の逞しい腕が支えてる。皺だらけになったスーツに彼の汗が染みて、なんだかガマン汁みたい。
『そんなところまで可愛いなんて、もう、食べちゃいたい……!』
と、叫ぼうとして顔を上げた私。
シンクの壁に張られた鏡に、だらしないトロけ顔が映った。その後ろには、私に斬新な愛撫の快楽を植え付けていたはずの、彼の顔。
「……え、えええええ〜ッ!」
時間を巻き戻したように、大きな手にグラスをみっつ掴んだ彼が、給湯室に入ってくるところだった。
「すみません、おかわりを……」
というセリフもさっきと一緒。だけど。
確かに背は高いけど、ここで見る彼には、最初に感じたオーラがまるでゼロ。足はあまり長くないし、気を抜いたら太りそうな体型だし、顔つきもなんだかユルめ。我が社のリーマン連中と大差ない。
あーあ、魔法が解けちゃった。
私、誘惑の香りを出し惜しむように、ぎゅっと脚を閉じて、
「あーはい、すぐお持ちしますねー」
そう、テンションの低い返事を返したの。