その男は、わたしたちに向かって、何度も「守る」という言葉を使った。
時に、同情を引く絵を用い、時に、模型とやらも持ち出して。
その「守る」という言葉は嘘くさかった。
何から守るのか。
何を守るのか。
赤ちゃんやそのお母さんたちを守るのだと、絵まで見せて信じさせようとしたけれど、説明は二転三転し、根拠がないことが明らかになった。
そんな説明で良しとみなした、その男の判断力、わたしたちへの見くびりに、心底驚愕した。
目的は別にあると、皆が感づいていた。
それにもかかわらず、肝心の目的は隠され、誤魔化すために「守る」という言葉が使われたのだった。
多くの人が問題だと思った。
「丁寧な説明」なるものがされたが、疑問と疑念は膨らむばかり。
けれど、その男は、俺が言うのだから間違いない、俺を信用しろ、俺の言うことを信じろと言うばかりだった。
大丈夫、俺に任せておけば問題はない。
だって、俺が言うのだから。
信用しろ、信じろという命令ほど、疑わしいものはない。
言葉が信じられないから、相手を信用できないから、疑っているのに。
思えば、その男の言葉はいつも空虚だった。
文字に起こしてみれば、論理性も知性のかけらもなく、説得力などつゆほどもないことは一目瞭然だった。
知恵者たちがよってたかって事前に作ったという文章を読み上げている時ですら、そうだった。
おそらく自分でもそれを分かっているから、鋭い質問を投げてくる人をやじったり、言葉を遮ったり、あらかじめ用意した台詞を吐いて相手を煙に巻いてお茶を濁してきたのだろう。
男のやったことは、わたしたちの日常の細部にまで入り込んできた。
ルールを平気で破ることや、前言を翻しても平気なこと、自分に都合の悪い弱者を切り捨てること、強い相手にはおべんちゃらを言ってすり寄ること、暴力でいうことを聞かせてもいいことや、既成事実さえ作ってしまえばこちらの思い通りになると人を見下すこと、差別を放置し利用することは、公認されたも同然だった。
わたしたちがこれまで大切にしてきたもの、世界への信頼が破壊された。
どうやって、こんな世の中で自分の「良心」を大事にしていけばいいのだろう。
この男は「守る」というかけ声で、わたしたちの大事な世界を壊した。
その男の名前を安倍晋三という。
愛してやまないラブピースクラブのコラムに、この名前を記すことをわたしは躊躇した。
けれど、今、「マモルくん」のコラムでこの名前を書かないことは、むしろ罪かもしれないと思った。
日々の営みの、あらゆる場面で、わたしたちは「マモルくん」たちと対峙している。
「マモルくん」はいろんな顔をして現れる。
人の姿をしてはもちろん、わたしたちにまとわりついて力を振るい、生活を生命を息苦しくするものとして。
職場で、家庭で、恋愛の最中でも。
ネット空間で、テレビの画面で、雑踏で感じる無関心で。
その日常の違和感は、国会という「言論」空間とも、海を隔てた彼の地の女性たちのものとも、繋がっている。
「守る」という言葉は、敵がいることをほのめかして、この問題については自分に任せればいいと、相手の知る意欲を奪い、自分に従わせ、他に問題があっても守ってくれるんだからと欠点に目をつぶらせる、マジックワードだ。
彼の語る「弱いアナタを守るボク」の物語すら、作り話なのだと疑った方がいい。
嘘や暴力や責任回避や前言撤回が公に認められたらしいこの国では。
「マモルくん」たちの常套手段、効率のいいコントロール方法は、相手が萎縮し、自分で自分の行動を制限していくように仕向けること。
恐怖で動けなくさせることもそうだし、人に任せておけばいい、やってもムダだと、諦めさせることもそう。
それは、わたしたちが本来自由なのだと気づかせないために、周到に張り巡らされた罠なのだ。
頬を叩く平手や、行く手を阻むおびただしい数の警察官の言動や、卑劣な言葉の数々は、現実に振るわれている暴力だ。
わたしは自由だと叫んだところで、暴力は止まらないし、痛みも消えない。
けれど、それで諦めては、「マモルくん」たちに、「守る」という言葉で支配され続ける人生を送ることになってしまう。
わたしたちは自由だと思い出そう。
言葉を大切に使い、小さいことをないがしろにせず、知恵を出し合い、エールを送り、時に叫ぼう。
違和感を無かったことにしたり、怒りを押し殺すのはなく、語りあって、共有していこう。
出来事を冷静に見つめ、でも決して落胆するのではなく、笑い飛ばしもしながら、熱く、のびのびと毎日を送ろう。
わたしたちは知っている。
「マモルくん」たちが恐れているのは、わたしたちが「自由」だということに「気づく」ことだ、と。
わたしたちには力があることに「気づく」ことだ、と。
気づいてしまったからには、もう後戻りは出来ない。
気づくことと行動することは違う?
でも、気づいてしまったら、見える世界がかわったでしょう?
あなたはもう、前と同じじゃない。
前を歩く人たちの姿が見える。
わたしも、後に続きます。