『百合子、ダスヴィダーニヤ』撮影現場より©旦々舎
ピンク映画の撮影現場に新人女優がやって来た。女優と言ってもAVデビューしたばかりの19歳の女の子だ。もちろん芝居など出来はしないが、カラミ要員(セックスシーンだけを演じる女優)としては成立する。
「どうしてAV に出ようと思ったの?」という私の問いに、彼女は、あっけらかんと、こう答えた。
「彼氏がどうしても出ろって言うから・・・」
10歳年上のサラリーマンの彼氏が出来た。多分彼はAVでセックスを学んだ世代なのだろう。「自分の女」がAVに出て、「本番」をやり、「本気でイク」姿に興奮するのだという。
だから、ピンク映画で疑似セックスなんかしたら、彼氏に怒られる。と言うのが彼女の目下の心配事なのだ。
私は、1971年から今日まで400本を超えるピンク映画を撮り続けてきた。カメラの前でセックスシーンを演じた女の子たちは、1千人を超える。そのほとんどが女優としては素人だったが、エクスタシーの表情だけは完璧に演じることが出来た。
プライベートのセックスでもイクふりをする女性は多い。「彼に満足してもらいたいから」「感じない女と思われて、嫌われたくないから」との理由が多いが、では、女にとってのセックスは、自分が楽しむための行為ではなく、男の快感のために股を開くものなのか?
これこそ「最悪のセックス」だと思うが、前述の新人女優は、エクスタシーの演技が出来ないと言う。
「だって、本気でイッたかどうか、バレちゃうし・・・」
つまり、男の為にイクふりをする必要が無い。だから、AVの現場で男優との本番は、上手だし、気持ちいいし、彼氏も喜ぶから、一石三鳥なのだとか。
なるほどね、これからも、自分が気持ちいいセックスするんだよ、と応援したくなったが、ピンク映画の疑似セックスではどうしようもなく、イク演技も出来ない女優を前に、私も茫然としたのであった。
さて、私にとっての「最高のセックス、最悪のセックス」だが、セックスを知ってから約半世紀(笑)、我が身を振り返ってみるに、最高も最悪も、そんな劇的なセックスは、経験しなかったような気がしないでもないが、自らの意志以外では股を開いたことは無い、とは自信を持って言えるかも知れない。
10代の頃、「悪徳の栄え」や「O嬢の物語」を読みまくって、セックスに興味を持った。
「ともかく、経験しなきゃ」と、同い年位の男子を誘ってみたが、これが少しもよくなかった。ちえっ、なんだ、こんなものか、とがっかりしたが、もしかして、相手が若すぎたのかも、と思い直して、次は10歳ほど年上の男で試してみたが、こちらも全く気持ちよくない。この2回の経験で、男の快感と女の快感は全く違う、と言うことは学んだが、セックスへの興味は冷めてしまった。
それからしばらくして、好きな人が出来た。それは、もう、好きで、好きで、たまらなかった。毎日会って、毎日話がしたかった。「これは、恋だ」と私も彼女も認識した。だけど、恋の相手は女子である。1960年代頃は女同士の親しい関係は「エス」と呼ばれて、奇異な目で見られた頃だ。悶々と自分の気持ちを持て余し、結局、指一本触れることも出来ないまま、それぞれの道に進んで会えなくなってしまった。
この恋が私を変え、上京を機に私は女性と暮らし始めた。
それ以降、私のセックスの対象は男であったり女であったりするのだが、自身を「バイセクシュアル」という枠にはめたことは一度もない。私が誰を愛そうと、私は、私だ。
私にとって、セックスにおけるたった一つのルールは、相手と平等であること。個と個が等しく向き合えること。そして、肉体と共に心も解放できること。これが今のところ私にとって「最高のセックス」だと思っている。
私も還暦を越え、60代も後半になった。一昔前だったら、「女を上がった」などと言われ、ババアのセックスなど考えられなかったかも知れないが、ところが、どっこい、そうはいかない(笑)。当たり前だが、ババアにだって性欲はある。いくら年齢を重ねようと、人を好きになる気持ちは変わらない。セックスしたい欲望も変わらない。長い年月を生き、経験を積み重ねてきたからこそ、これから先に素敵なセックスが待っている、という楽しみを持てるのだ。
女は、枯れない。私も、枯れない。今日より明日、より最高のセックスが出来ることを信じて、私は100歳まで生きるつもりである(笑)。