年の初めでもあるので、天皇制について感じ、考えていることを書いてみようと思う。敗戦後、父はシベリアに抑留された。そこで天皇制の残虐な真実を知った父は、お正月は多少お祝いしても、日の丸は掲げなかった。また、天皇や宮内庁という言葉には嫌悪感を露骨に示していた。
幼いわたしはそれらの言葉に嫌悪はなくても、医者や医療という言葉には、父の天皇にまつわる言葉のような嫌悪を持っていた。特に医療者たちの、母とわたしを見る目にはネガティヴなものしか感じられなかった。彼らは本当にわたしの命を救いたいと思っていたのだろうか。今でも彼らのわたしへの注目の中身は、救命ではなく、向学心とわたしの身体に対する興味関心でしかなかったと思っている。そのうえ、そこはかとなく漂っていたわたしの身体への侮蔑、排除感。なぜか、物笑の種にされているという感覚がずっとあった。
彼らと酷似した眼差しを向けてきた人がもう一人いる。わたしが12歳くらいのとき、彼は美智子さんを伴って、わたしのいた施設に訪ねてきた。彼らのわたしのいた施設への訪問は、その施設にとってはたいへんな名誉だったらしく、まさに大イベントだった。彼らが来る半年前から改修工事が始まり、わたしの部屋の壁も塗り替えられた。わたしは彼らに一番最初の方に会える子どもとされて、親にも1ヶ月前から新しい服を送ってくるよう要請された。詳しくは覚えていないが、よだれを垂らしていたり、言語障害のあった子どもたちは改修もされない部屋に閉じ込められていたと思う。
天皇制は日本の女性差別のキツさをもよく見せてくれた。あの時も美智子さんは高いヒールの靴を履き、汗だらけになりながらひとりひとりの子どもたちと一言二言話しかけていたが、彼はわたしたちの前で、檻の中にいる動物を見るように睨め付けて、ひとりひとりにあごをしゃくった。言葉に出さず医者にわたしたちの身体の説明をさせていたのが忘れられない。彼にとっては、わたしたちの存在はまったく対等でも平等でもなく、率直に言えば、同じ人間ではなかった。わたしにとって天皇制は差別選別の象徴的システムだと、深く認識する契機になった。
わたしは父から昭和天皇がどんなに残酷な侵略をアジアの国々にし続けたか、そしてその責任も取らずに亡くなったかを聞き続けた。そのうえ直に彼の息子に会ったわけだ。父はわたしが20代始めに、年金や生活保護を使って家を出て暮らそうとしたとき、「天皇たちがあれだけの予算を使っているのだから、お前もきちんと税金を使って生きればいい」と言った。「俺もきちんと税金を払っているわけだしな。」当時は、そんな風に生活保護を見て障害を持つ子どもの自立を応援する親は全然いなかった。彼の考えは母にも共有されて、わたしは親との葛藤をほとんど経ずに自立した。しかし母親は天皇制をそれほど嫌がってはいなかった。それどころかわたしが3、4歳のときに天皇が来たときには物見遊山でわたしを連れてちっちゃな日の丸を沿道で振っていた気さえする。母は、父のように血生臭い戦争を体験したわけではないから、天皇の無責任と残酷さに気づくことなく敗戦を迎えたのだろう。東京裁判でも天皇は裁かれることはなかった。生活の再建に一生懸命だった日本人は、敗戦という事実からほとんど何も学べなかったようにわたしには見える。特に医療界には、敗戦の負の遺産が象徴天皇制とともに受け継がれてしまった。なぜなら、731部隊の石井六郎を始めとする彼らは、戦後、各地の大学病院や製薬会社に職を得ていったからだ。731部隊でアジア人に繰り返した殺戮によって得た膨大な数の資料が彼らを救ったのだった。その背景には、アメリカとの密約があった。731部隊で集めた資料と引き換えに、彼らは東京裁判にかけられることはなかったのである。
年末にわたしは風邪を引いた。微熱と頭痛に悩まされ、のども痛いし咳も出るし、久しぶりに大変な風邪であった。しかし、わたしにとって医療に親しくするということは、どこかで天皇制に這いつくばるような気さえしている。だから、風邪では病院には全く行かない。この感覚は、施設の中にいたときのほんの一瞬ではあったけれど、彼との関わりから来ているのだろう。自分の身体を天皇のものとされてきた戦前の歴史から徹底的に自由になることが、天皇制を覆すことであると思っている。わたしの身体はわたしのもの。今年も自分の身体に愛おしい眼差しを注ぎ続けていきたい。
<著者提供>原発避難でニュージーランドの北島に住んでいた三年間、その借家の庭の巨大なアボガドの木と、友人の犬と。