電動車椅子が街に走り始めたのは、私が20代の頃だった。今から40数年前のこと。最初は非常に危ないなという感じがしていたが、乗り始めれば、自分の意志というものの本体がよく分かった気がした。
足も手も、動くためには意志が必要であって、それをいちいち意識的に手足に伝えているわけではない。つまり、電動車椅子でふらふらと散歩をしたり、友人を追いかけたり、美しい自然を見に行ったりするときなど、介助者とのやり取りをしなくても電動車椅子で好きなように動ける。それは、新たな自由ではあった。
しかし、それには随分のリスクがあった。広島県青い芝の会の仲間が、電動車椅子で電車の上下線に二度轢かれて亡くなったことがあった。彼女を悼むなかで、彼らは数台の車椅子を海に投げ捨てた。
彼らは電動車椅子が現代文明から出たものであって、障害がある人の幸せのために考えられたものとは思えないと言い切ったのだった。確かになんでも事実や科学に頼っていくだけでは十分ではないだろう。ひとりひとりまるで違う身体を持っているから、電動車椅子を選ばない人もいるだろうとその報道を読みながら思った。
ただ私はその時、電動車椅子を持っていなかったから、正直を言えば私にくれればよかったのにと思ってしまった。その後、私も自分で乗るようになってから、何回か怖い思いをした。特に娘を産んでからの数年間はストレスからかよく転倒した。
1番ひどかった怪我は、結構高い段差を後ろ向きに降りようとして思い切り転倒したもの。頭を強く路面に打ちつけ、後頭部の痛みと、首がおかしくなった。通りすがりの人たちが数人集まって、親切に起こしてくれた。「救急車を呼びましょう」としきりに言ってくれる人がいたが、私はそれを固辞して「大丈夫です「と言って家に戻った。痛みはさらに壮絶になった。
すぐにも信頼している鍼灸の先生にかかりたかったが、まだ娘が小さかったときだったので、娘を見てくれる人の段取りをつけた。鍼灸医までの車で3〜40分の道のりは普段より遠く感じた。
鍼灸医からは、「治療はするけれど1枚はレントゲンを撮ったほうがいいよ」と勧められたが、それでも「先生の針のほうが、1枚のレントゲンよりも信頼できます」と言って、時間をたっぷり取ってもらった。
彼は、私が10代の人向けに書いた「ねぇ、自分を好きになろうよ」という本を読んで、私のことをいつもよく看てくれていた。そしてときどきは、「遊歩さんは精神力で生きているといっても過言ではないよ」と褒めてくれてもいた。CTはもちろん、レントゲンも撮らず、その後も彼に週2〜3回くらい通ってもらい、2ヶ月くらいかけてすっかり治ってしまった。
私の中では、西洋医学、特に整形外科は「暴力」というイメージになってしまっている。0歳から2歳までの、男性ホルモン投与のトラウマがどれほど激しく自分を縛っていることかと、しみじみ感じる。とにかく怪我をしたときに医者に行かなければという発想が皆無に近いのだ。
その後も一度、電動車椅子で怖い思いをした。踏切でランドクルーザー(大きなジープ)の斜め背後にいた時のこと。どういうわけかわからないけれども、車椅子の何処かが、ランドクルーザーが発進したのと同時に引き摺られたのだった。私の凄まじい叫びに気付いた人たちが、ランドクルーザーの運転席のドアや助手席のドアをドンドンと叩いてくれて、一命を取り留めた。
2011年から2014年には、原発避難でニュージーランドに暮らした。そのときの3年間は、穏やかな気候と、仕事らしい仕事が全くなかったからか、電動車椅子を毎日使っても、ひとつも怪我をしなかった。緊張やストレスのない暮らしが事故や怪我を遠ざけてくれたのだと思う。
日本にいるときは、関東周辺の駅にはエレベーターがほとんどなかった。介助料もなかったから、そんな中を電動車椅子で移動していた。国立の家から八王子の職場まで、電車で14分の道のりのなかで、私は少なくとも50回以上の八王子市長への提言をした。当時、八王子市には、市長への提言を無料のハガキで出せるというシステムがあった。それを大量にもらってきて、通勤の揺れる電車の中で書きまくったのだった。
その頃、電動車椅子で駅に行くと、駅員が最低5人、多いときには6〜7人出てきた。両脇に2、3人ずつズラリと並んで、片手で車椅子を持ち上げて、掛け声をかけながら階段を登ったり降りたりした。
私の体重は25キロ。バッテリー1個とほぼ同じ。それが2個あって全体では100キロ近くもあった。その全部を駅員が担いで移動するには、きわめてリスクが高かった。一日に最低3〜4回は宙づり状態の状況を経ること、それも骨の弱い身体を持つ私が、だ。それでも、時々は今でさえ駅の階段の前に行くと、思わず「手を貸してください」「手伝ってください」と声を出しそうになるときがある。
ただ、いつの頃からか、私は電動車椅子にあまり乗らなくなった。自由を求める気持ちが電動車椅子で1人きりの自由ではなく、介助者との関係性の中にある自由への追求に変わってきたようなのだ。それはちょうど閉経を迎え、また骨折が頻発するという身体の状況に応じてのことなのかもしれない。身体は常に暴力的に自分を扱われることを拒否する。電動車椅子を使いまくって、エレベーターをつくり、平和な社会づくりに十分に貢献できた。身体は常に変化し続ける。これからは介助者と2人で街を歩いていこうとおもう。