今年の夏は、私と同じ易骨折性の身体を持つ友人たちが2年前と去年と相次いで亡くなったので、線香を上げに福島に行ってきた。彼女らは養護学校の後輩で、2年前にシャワー後に突然亡くなった友人はまだ33歳だった。去年亡くなった友人は61歳で私より7つも若かった。2人とも猛烈な頑張り屋で、養護学校の高等部を出て公務員をしていた。
彼らにご焼香したいと言ったら、彼らを直接は教えてはいないけれど、養護学校の教員をしていた友人が連れて行ってくれた。その友人に寄れば、養護学校出身で公務員になるということは、周りからはものすごい出世頭と見られるという。私にはその認識がほとんどなかったので、その言葉を聞いて、彼女らの死因を垣間見る思いだった。今回はそのことを書こうと思う。
私たちの身体はタンパク質の遺伝子の組成が人とはかなり違う。タンパク質の取り込みが独特なために、骨がもろい。また、人によっては耳や目に色々な特徴が現れることがある。その中の一つに、青色強膜という目の白いところが青みがかったり、あるいは真っ青な人もいる。
この特徴は、旧優生保護法の別表にもあった。中学生だった私は、その言葉を別表に見つけ、恐怖と絶望に襲われた。なぜなら、私はその4文字を幼い時から聞いていたからだ。0歳でこの小さな身体のこの骨は人より脆いという特徴を発見されて、大学病院の通院が始まっていた。その中で、この4文字を不快と不愉快の中聞き覚えたのだった。
教授と言われる医者は、常に尊大な態度で私に一切の許可を求めることなく、私の目を押し広げた。まぶたをめくり上げながら「この子は青色強膜の特徴がほとんど見られないよ」と言って、若い医者や研修生に私の目を見せまくっていた。子どもの身体、特に障害を持ったこの身体が、尊厳を持った大切な身体なのだという認識は医者には無かったから、その4文字を頭の上で言われまくって、私はすっかり元気をなくしていった。
だから、優生保護法にその4文字を発見した時、この身体は生まれてきてはいけない身体だったのだと刻印された気がした。その後障害者運動に出会い、優生保護法に異義を唱える仲間たちと活動を始めて、少しずつその刻印から自由になっていった。
33歳で亡くなった友人にはその頃出会ったのだと思う。彼女はまだ大学生だった。小学校から高等部まではずっと養護学校で、私が彼女を知ったのは、彼女のお父さんが私と同じ身体の特徴持っていて、私と同じ養護学校に居たからだった。彼女のお父さんは当時110センチくらいの私よりもさらに小さかったから、学校時代、将来についてひどく悩んでいたようだった。
私はその学校に2年8ヶ月しか居なかったが、彼は卒業後自宅で小さな雑貨屋を始めたと風の噂に聞いていた。結婚もし、娘もできたがすぐに離婚となり、男手一つで娘を育てるのはどんなに困難だっただろう。高等部を卒業して、大学生の彼女に会ったとき、彼女は何度手術をしても足の骨がくっつかなくなってしまって、常に足が痛いと言っていた。
私はそんなことがあるとは思えなくて、養護学校に併設されていた病院施設の医者とのやり取りや、手術のことなどをずいぶん聞いた。結局わかったのは、彼女の自分の身体に対する自己決定権を認めることのない医師たちの有り様。母親もいず、父親も忙しかったために、医師たちは、彼女の身体を生体実験材料のように使ったとしか思えなかった。唯一良かったのは、今後もう二度と痛みがなくなると、言われても手術はしたくないと彼女が語ってくれたことだった。
それから10年ほどの年月の中で、私はなるべく彼女に会おうと心がけた。というのも、彼女が仕事をし始めてからの忙しさの半端なさが気になったからだ。彼女は免許を持っていたので職場まで車で通っていた。通勤を車で通えるから楽なのだとは言っていたが、車椅子の上げ下げや運転席での姿勢の変えられないゆえの疲労。私は彼女に会う度、労働時間の短縮を職場にお願いするよう伝え続けた。しかし彼女にとっては、そんな要求は発想にもない夢物語で、多分一度も言語化されることはなかったろう。
また61歳で亡くなった友人は、仕事以外に卓球を一生懸命にやっていた。それは、趣味の範囲も超えて、パラリンピックにも出れるかもというところまで行ったという。それが8年前に現実化しようという時に、事故が起きた。彼女も自動車の運転ができたから、仕事をしながらも、長距離を運転し続けてパラリンピックへの出場にチャレンジしていた。
にも関わらず、8年前のその事故直後から彼女の足の痛みは激痛となり、常態化した。そのため、身体を動かすことが恐怖で、通院を拒否してしまったという。介助も慣れた家族にだけしか任せられず、様々な場からも遠ざかっていた。亡くなった時は布団にびっしりとカビさえ生えていたとのこと。
先にも書いたが、2人ともこの社会での成功者として、動けなくなるまで、この社会のシステムに合わせ続けた。それぞれ自分の家を建て、家事も自分でできるよう、アクセスでユニバーサルな家を立てた。この社会のシステムは、何でも自分でやらなければならない、極限まで助けを求めずに生きること。例え車椅子に乗っていても、職場の皆に迷惑をかけないよう、残業はきちんとこなすこと。そして、助けを求めることは弱いことであると認識し、女性としての役割から逸脱しないよう、注意深くあること。
医療はそのシステムの中で生きていくためのサポートだから、残業に異議を唱えることは応援してくれない。それどころか、感覚を麻痺させたいと思う方向でなら、薬が出される。2人とも骨折の痛みを常に抱えながら、完全にその痛みから回復することは無理だろうと見放されてもいた。2人の人生を考えれば考えるほど、助け合うことをさせず、それどころか、医療さえも暴力的に使われるこの社会の残酷さに心が痛くなる。それでもたった1度の人生を思いっきり生きただろう、2人に拍手を送っている。