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TALK ABOUT THIS WORLD ドイツ編 さようなら、八百屋さん

中沢あき2024.07.17

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ドイツのどの街にもあるように、我が街にもドイツ語でマルクト、いわゆる青空市が日々、各地区の広場などに立つ。
野菜や肉、乳製品などの食料品の店が主で、あとは魚屋や花屋、ちょっとした日用品や安い衣料品を扱う店が並ぶこともある。英語に訳すとウィークリーマーケットと呼ばれるこれらの青空市では、スーパーでは見かけない野菜が手に入るし、農家直売の店もあるのでなんと言っても新鮮だ。
今でこそスーパーでも大根や青梗菜などの野菜が並ぶようになったけれども、私がドイツに来た18年前はそんなものはなく、キャベツ、にんじんや玉ねぎといった一般的な野菜ですら萎びたり腐りかけていたりしたものが平気で並べられていた。だから野菜のバラエティがあって新鮮なマルクトの八百屋は私の頼りだった。当時、近所のマルクトは週2回、火曜日と金曜日に立っていたのだが、10年ほど前からそれが週に一度、金曜日だけになってしまった。店側の人手も客足も両方が減ったせいだろうか。

毎週通って常連だったそのマルクトの農家の直売店は私のドイツでの食生活を支えてくれたといっても大袈裟ではない。
日本とはいささか違う品揃えではあるとはいえ、ときどき大根をここで買うことができたし、初夏の短い数週間だけ、そら豆も並んだ。それからフダンソウという青菜。最近は日本でもスイスチャードと言う名前で売られているらしいけれども、ほうれん草以外の青菜が、それも新鮮でシャキッとしたものが買えるのはありがたかった。だってドイツのほうれん草は冷凍の物が一般的だから。ルッコラやサラダの味も濃くて、数種類並ぶじゃがいもの味もりんごの味もスーパーのものより格段に味わい深くておいしかった。
値札には時々、「Natur(自然)」と書かれていて、「この自然ってどういう意味?オーガニックってことですか?」と訊くと、オーガニックとほぼ同じ意味よ、だけどオーガニックと名付けるためには登録しなくちゃいけなくてお金もかかるから、と裏事情を教えてくれた。でもここの野菜の味は近くのオーガニックスーパーよりもしっかりしたものでおいしかった。値段はオーガニックのものよりもやや低かったが、かといってスーパーの野菜よりは高い。でもお金を出すだけの価値はある味なのだ。
別の地区に引っ越したのにまだ買いにやってくるという常連もいるこの農家の店は、高齢のおじいちゃんがその主。あとはいつもいる2人のおばちゃんに加えて時々、別の手伝いの人たちが入っていた。

2人のおばちゃんたちはときどきドイツ語以外の言葉で会話していて、「ポーランド語ですか?」と聞いたらそうではなくて、スロベニアからの移民だった。
片方のおばちゃんは私の買い物リストを把握していて、大根があれば頼まずとも必ず私のために取り置きしてくれたし、生まれた子どもを買い物に連れていけば、いつもりんごのおまけをくれて、そして私にはしょっちゅう「子どもとは必ず自分の母国語で話しなさい。私も自分の娘にはそうしたわ。言語のルーツは大切よ」と言っていた。

もう1人の細い体に髪の毛をひっ詰めにしていたおばちゃんは、我が家ではこっそり「魔女」と呼ばれていた。ときどき、他の人が見ていないタイミングを見計らって、私たちの買い物袋の中にリンゴをいくつも入れてくれたり、サラダをもう一株突っ込んだり、おまけというには多すぎる量にそんなに食べきれないよ、と止めようにも「持って行け」と言わんばかりにギロリと睨みを一瞬効かせたあと、ニッコリと笑顔で「毎度ありがとう」と私たちに大きな袋を持って行かせるのだ。その手さばきと凄みのある表情の切り替えは「魔女」。でも「よき魔女」だった。

18年前もすでにおじいちゃんだったその店主つまりは農場主は、当たり前だけれどもさらに歳をとり、以前は大型トラックを自分で運転していたのにこの何年かは杖をつきながら歩いて客の相手をし、そしてしまいにはただ座って皆の動きを眺めているだけになった。でもおばちゃんたちいわく「彼は何かしないとダメなのよ、でないと本当に動けなくなっちゃう」。
ダークグリーンのチロリアンハットをいつも被り、ケルンの方言のアクセントで話す彼は、弟がいる他は家族の話は聞いたことがない。後継者の話もなく、その弟も数年前に亡くなったらしい。農業そのものも経営も昔ながらのやり方を続けてきたんだろうと思われたが、何回か、マルクトに店が出ていない時があって、後日おばちゃんたちに話を聞けば、裁判に出廷していたのだとか。何かの権利問題だったらしいが、誰と争っていたのかはよくわからない。
マルクトの管理人だろうか、行政の人らしき人たちがおじいちゃんにお説教のように苛立って話し続け、しかしまるでボケたかのように表情を変えずに聞き流す店主を1人で座らせたまま、おばちゃんたちが離れたところで知らんふりをしているのを見て、そのタヌキ芝居のような様子に思わず笑ってしまったこともある。
もしかしたらマルクトの使用料のこととか、笑い事ではない問題があったのだろうが、のれんに腕押しの状況に怒り続ける人たちをそのままに飄々としている彼らの姿がおかしかったのだ。今から思えば、農家のプロではあっても、高齢で現行の法律やシステムに追いついていけない農業経営者の問題が垣間見えていたのかもしれない。

ある時、野菜を並べた台の上に、大きめの本が置いてあった。それはモノクロの写真集で、この農家のフォトドキュメントだった。ある写真家が撮り、ちゃんと出版された本だった。苗付けの様子、収穫の様子、出荷の準備の様子。農場主と従業員たちの日々がモノクロで綴られたその写真の姿は美しくて格好よかった。「すごいね、こんな素敵な本まで出るなんて!」と感想を言うと、おばちゃんたちはそうでしょう?と自慢げに笑った。

同じく常連である近所の友人たちと、彼がいなくなったらあの農場はどうなるのかなあと話しあったことがある。「このリンゴが美味しくて、隣の地区に引っ越してもまだ買いに来るのよ」と言うお客がいるくらい、皆から愛され必要とされているこのマルクトの八百屋は、今年の1月、私が日本から戻ってきて買い物に行った時、そこにいなかった。まだ冬休みかしら?と思ったが、その次の週に買いに行った夫は他の店の人から聞いた話を持って帰ってきた。昨年12月に店主であり農場主のおじいちゃんが亡くなったのだと。その後2回ほど、おばちゃんたちが野菜を売りにきていたそうだが、年明けからは店を出していないと。そうか、とうとうか、と思った。

野菜自体は、何年か前からもう一店、もっと若い世代の農家の直営販売が同じマルクトに出ているのでそこでも買える。でも本当は、あのおじいちゃんたちの野菜が食べたい。昔からの信頼がある野菜と、そしてあのりんご。もしかしたら葬儀や諸々の片付けがひと段落したら、またおばちゃんたちが売りに来るかもしれない。すぐにあの大きな農場を閉鎖するわけにはいかないだろうし。でも何週間経っても店は現れなかった。そして我が家もりんごやじゃがいもはスーパーのオーガニックのもので、残りの様々な野菜はもう一つの農家のもので、と買い分けるようになり、それに慣れた。

最近ふとあのおじいちゃんのことを思い出してネットで検索してみたら、数年前に撮影された短編動画が出てきた。この街で一番老齢の農家、として紹介されている彼は2017年に撮影された時、87歳だった。と言うことは亡くなった時は93歳だったのか。亡くなる数日前まで、いつものように仕事をしていたと動画に添えられた作者のコメントがあった。Googleマップの情報には電話番号がまだあったので、思い切ってかけてみた。もしも誰か出たら、またいつかマルクトに店を出すことはあるのですか?と訊いてみたいと思って。でも私の携帯電話には電話番号と共に農場の名前も自動的に表示されたと言うのに、この電話番号は使用されていないとアナウンスが流れた。

ドイツでも専業農家の数はどんどん減っている。その中でも特に小規模の農家が廃業し、大規模経営の農業者へと切り替わっているそうだ。マルクトで直売される野菜は小規模の農家のものだ。その種類の多さや新鮮さ、直接作り手の顔が見える安心感はたとえオーガニックのものであってもスーパーのものでは得られない。

あの農場のりんごの木はどうなったのだろう。たとえおじいちゃんの直系の後継者がいなかったとしても、誰か農業をやりたい若い世代の人が引き継げれば良かったのに、などと勝手なことを思ってしまう。農業経営は大変な事業だ。安定しない儲けに休みなしの仕事。だから後継ぎがいないのももっともかもしれない。でも本当に勝手な思いだけれども、あのりんごをまた食べたいと思う。ちょっと酸っぱい、爽やかな甘みの小ぶりのりんご。スーパーのりんごで同じ味のものをまだ見つけられないでいる。


©︎ Aki Nakazawa

これは18年前の写真。まだおじいちゃんの背中もまっすぐでシャキッとして若々しい。その見た目の変化に時の流れを感じながらもう一つ驚いたこと。この時は白アスパラガスの時期だったのですが、その値段が当時は4、50ユーロ/キロ。いまやこの値段は倍以上です。インフレも関わるとはいえ、物価の値上がりに、ドイツの生活が厳しくなってきたのだと感じてしまいます。古き良き時代なんて過去を振り返るのはガラではないけれど、なんとドイツの社会も変わったことか……。

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中沢あき

中沢あき(なかざわ・あき)

映像作家、キュレーターとして様々な映像関連の施設やイベントに携わる。2005年より在独。以降、ドイツ及び欧州の映画祭のアドバイザーやコーディネートなどを担当。また自らの作品制作や展示も行っている。その他、ドイツの日常生活や文化の紹介や執筆、翻訳なども手がけている。 

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