医療とは一体なんのためにあるのかと首を傾げてしまうことがしょっちゅうある。先日、赤ちゃんの出生率が50年前と比べて約半分になったというニュースをみた。このニュースの影にも医療が色んなふうに使われていると思うのだ。
元々は人の命を助ける為にあるものだったろうに、それと真逆の使われ方がされたりする。いま一番憂いているのは、出生前診断の広がりだ。出生前に障害があるかないかを判別して、それでも産むかどうかを妊娠した妊婦とその周りに居る人に決めさせるというもの。出生前診断で診断されるのは生まれる子の身体の状態。つまり、人と違った身体をしているかどうかで生きて生まれることができるかどうかの確率がぐんと低くなる。
妊娠期は出生前診断があってもなくても限りなく不安だったり、時には喜びであったりするなんとも表現し難い時期である。どんなにお酒やコーヒーやタバコが好きでも殆どの人がその時期にそれらのアディクションを遠ざけようと努力する。
だが時にはアディクションと妊娠の関係について情報の入らない女性たちもいる。そういうところにいる女性たちには出生前診断の情報も十分に届かない。届かなければ出生前診断による中絶は少ないかもしれないが、経済格差の中で産めないまたは産まないという状況に追い詰められることもおおいにあるだろう。
フェミニズムの運動の中で「私の身体は私のもの。産む産まないは私が決める。」という標語があった。これに対して脳性麻痺の障害を持つ男性たちが、その女性たちの運動に対して激しく反発した歴史がある。私は障害を持つ女性として障害を持たない女性たちの運動もよく分かるし、障害持った男性たちの怒りも当然かもと思ったものだった。
彼ら、それぞれの被差別の位置に対して、更に被差別の位置に置かれた私がどうできるのか悩んだ時期があった。
その結論として障害を持たないフェミニズムの女性たちとともに活動した1994年。私はエジプトのカイロに行き、1948年から96年まで続いた優生保護法の差別性を世界に訴えた。この優生保護法は障害をもつ私たちの生殖の機能を破壊することで、障害を持つ人たちの次世代の子どもたちの命を奪ったのだった。当時私は、次世代の子どもたちの命が奪われることを止められたという思いでしみじみと喜びを覚えたものだった。
1996年にはその差別に満ち満ちた法律から自由になり、娘を産んだ。彼女も私と同じ易骨折性の障害を持って産まれたから、子育てが容易ではないだろうと知ってはいた。しかし、彼女にとっては自分の身体は自分のもので産む産まないは私が決めるという文言は幼い時から当たり前だったようだ。常に人と違った身体で生まれたことを医療によって全くいじめられずにきたこと。
つまり私は私が幼い時に受けた医療からは全く彼女を遠ざけて育てた。彼女と私の幼い時の骨折の回数は20回前後と殆ど変わらないが、私はその度凄まじい数のレントゲンを撮られ、ギブスをつけられた。また、私は手術の中でも特に痛いと言われている骨切り手術を8回前後された。
彼女は自分の身体を痛みの巣窟であるという呪いなく暮らし、未来に生命を繋ぐことは楽しいことであると思えていたらしい。生まれた時から徹底的にその生と性を肯定されてきたことで彼女は自分が次世代の命を育むことを自然と楽しみにしているのだ。
私は彼女が低体重児室から出てすぐから彼女の生と性を肯定する言葉を毎回毎回彼女の耳元で囁き続けた。それはこのような言葉であった。「かしここちゃんのかわいいこちゃん。優し子ちゃんのすてき子ちゃん。生まれて来てくれてありがとう」これらの言葉によって彼女は自分を基本的に肯定し続けてくれたに違いない。
ところで、冒頭に話を戻してみよう。出生前診断は私にとって優生保護法より更に残酷なものであると感じている。優生保護法の法律でやられているのは大人の障害を持った人たち。だから大人という立場性を持って共に戦う仲間がいた。
しかし、出生前診断で差別、選別される胎児はお腹の中でひとりぼっちだ。どんなに産まれたいと叫んでも障害児と診断されたことで、恐怖に陥っている大人たちにその声が届くことはない。障害胎児の声は障害と名指されることなく、ただひたすらに女性の意思で中絶される胎児より悲惨なのか。あるいは、診断されての栄誉というものがあるといえるのか。
戦時中、神風特攻隊に選ばれた若者が追い詰められる先は名誉ある死だった。国と天皇、そして人々の命を守る為に彼らの死は栄誉とされたのだった。出生前診断で奪われる胎児の死も家族の生活、日本社会のコスパを守るために栄誉の死とされるのだろうか。特攻隊と障害胎児に押し付けられた死は国の防衛という点で奇妙な相似をしているとも言える。