朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付取りやめの衝撃
先月取り上げた道徳教科書の件、9月には具体的な内容に踏み込もう…と思っていたのだが、さらに危機感を募らせる出来事が発生してしまった。9月1日、市民団体の日朝協会などが主催する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、追悼文を送るのを取りやめた。少なくとも石原慎太郎氏の時代から歴代知事が毎年送ってきたもので、昨年は小池都知事も送ったにもかかわらず、である。取りやめた理由について、8月25日の記者会見で、「(3月の大法要で)関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表したところでございます。ということで、この全ての方々に対しましての慰霊を行っているということで、今回、特出しの意味で行ったわけではございません。(略)それに尽きます。」と述べた。地元墨田区の山本亨区長も、毎年追悼文を送っていたが、今年は取りやめた。小池都知事と全く同じ理由であり、都知事とあわせ右向け右というわけである(「墨田区長も追悼文を取りやめ」2017年8月30日共同通信13:08)。
小池都知事の追悼文の送付取りやめに大きなショックを受けた。多数の批判や抗議の声が上がった(毎日新聞社説他)。私も8月の書評(「植民地支配を忘却する政治に抗して-「朝鮮籍」という思想」前編・後編)の中で言及もした。改めて、今回の都知事の決断の何が問題なのか、書いておきたいと思う。
歴史修正主義の立場を鮮明に
「関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表した」から足りるというのはどういうことだろう。朝鮮人犠牲者は関東大震災という自然災害による犠牲者ではない。自然災害を機に拡散した「朝鮮人による「爆弾計画」「井戸への投毒」」といった流言を信じた自警団、さらには警察や軍までが関与した虐殺の被害者たちである。
地道な研究が積み重ねられており、広範な地域で虐殺が行われたことが記録されている。ブログから話題になり単行本にまとめられた加藤直樹著『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(出版社:ころから、2014年)は、中でも広く読まれているように思われ、私は以前レビューの中で、戦慄しながら読みつつも、発売後すぐ2版になったことに、「歴史を学びたい人が多いことに、ほっとする」と書いた。小池都知事は、残念ながらこの本を読んでないだろう。都知事の追悼文取りやめは、「歴史を学びたい」人のふるまいとは思えない。
今回の取りやめのきっかけは、古賀俊昭自民党都議による今年3月の都議会での質問であるという(「なぜ小池知事は関東大震災・朝鮮人虐殺の追悼文を断ったのか 都議会で交わされた”あるやりとり”」籏智広太 バズフィードニュース2017年8月24日16:20 )。古賀都議は、追悼式典の行われる都立横網町公園にあると朝鮮人犠牲者追悼碑の「あやまった策動と流言蜚語のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました」との文言について「事実に反する」と問題視した。そのうえで、同様の人数が虐殺されたとしている日朝協会主催の式典に、知事が追悼文を送付することは「歴史をゆがめる行為に加担する」とし、送付の再考を求めた。これに小池都知事は応じてしまった。すなわち、古賀都議に対し、都知事は、追悼文は慣例的に送っていたもので、「今後につきましては、私自身がよく目を通した上で、適切に判断します」と答弁し、その後の「適切な判断」が今回の取りやめということなのだから。
古賀都議は、自身のホームページで、「戦後日本社会の中で忘れられた国家の誇りを取り戻す運動にも積極的に関わっている」といい、「日本人なら知っておきたい近現代史50の検証」などの著書があるという(上記バズフィード)。在特会系の団体主催のデモに参加し挨拶もしたことがあると指摘されている。ところで、小池都知事自身、在特会の関連団体「そよ風」主催、在特会女性部協賛の集会で講演を行ったことがある(「小池百合子の本性は極右ヘイトだ!朝鮮人虐殺を扇動する在特会系団体との関係発覚、知事になったら東京はヘイト天国に」リテラ2016年7月21日)。なお、今回の都知事の取りやめについて、「そよ風」はブログにて「小池都知事の英断に感謝します!」と称え、「戦後自虐史観との闘いは緒に就いたばかりです。今後とも、どうか宜しくお願い致します」と締めくくっている。小池都知事は、このように歴史を反省し記憶しようとする営みを「自虐史観」と誹る歴史修正主義の立場をいよいよ鮮明にした、といえる。
虐殺の記録・記憶
『九月、東京の路上で』の表紙には、幼い筆致でカラフルに多数の人々が描かれている絵が掲載されている。説明をみれば、関東大震災直後に小学校4年生による「1人の朝鮮人を、大勢の日本人が武器らしいものを持って追跡している」さまの絵なのだ。官憲その他大勢が厳しい顔でたった一人の無力な朝鮮人を縛り上げなおも棒等を振りかざしなぶり殺そうとしている絵…。幼い筆致と緊迫感にギャップがあるだけに、禍々しさに身震いする。
同様に、子どもたちの多数の作文にも震える。子どもたちは、淡々と書く。…不安だった。朝鮮人が殺されることにではなく、朝鮮人がいることに。殺されて、安心、とほっとする。虐殺された遺体をみて、人道上の悲憤を感じるのではなく、汚いものを眺めるかのよう。棒でつついた子どももいた。朝鮮人がいたと大人たちに言いつけた子どももいた。…
横浜市内の小学生の作文を700点以上も読んだ後藤周氏によれば、朝鮮人に同情したものは一点しかなかったという(「関東大震災の朝鮮人虐殺」朝日新聞2016年11月5日)。
子どもたちだけではなく、大人も多々記録している。俳優の千田是也氏は、朝鮮人と間違えられて殺されそうになったことを生々しく伝える。「教育勅語を暗誦しろ!」と迫られた。千田自身、「朝鮮人が日ごろの恨みで大挙して日本人を襲撃している」という「バカバカしいデマ」を「ほんとうらしく思え」、「勇みたって」「加害者たらんとした」と述懐していた。日ごろ差別し偏見を抱いていたからこそ、反転して攻撃されるかもしれないと「恐怖心」を抱き、それが集団心理となって、虐殺に至ったことがよくわかる。
司法省や軍も、一部であるが、虐殺の事実を文書に記録している(東京新聞2017年9月2日朝刊辻渕智之記者)。
その上衝撃的なのは、事態を拡大させ、深刻化させたのは、治安行政であり、軍であったことだ。朝鮮人暴動の流言に接したとき、普通の庶民以上に差別意識と敵意を持っていた警官や官僚の一部は「さもありなん」と考えて拡散させてしまったのだ。子どもたちの作文にも、現場の警察官が率先して朝鮮人を追いかけている様子が記述されている。それは現場だけの動きではない。警視庁官房主事であった正力松太郎は、軍もまた朝鮮人暴動を信じていることを確認すると、新聞記者たちに「朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ」と要請し、流言にお墨付きを与えてしまった。正力はのちに朝鮮人の来襲なる噂は虚報なることが判明した、「警視庁当局として誠に面目なき次第であります」、と書いた。警察がお墨付きを与えたことにより被害がさらに甚大になったのに、あまりに軽い(加藤直樹『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』参照)。
政治家こそ歴史を繰り返さないことを誓ってほしい
私たちは、差別と偏見を抱き、恐怖心に駆られたモンスターになりうるのだ。子どもも、大人も、モンスターになりたくはない。そのためには、記憶し、記録し、歴史にとどめ、繰り返し反省する必要がある。そして、凄惨な被害を拡大させた行政こそ、率先してその責任を背負う必要がある。
ところが、小池都知事は、朝鮮人被害者を、「関東大震災で犠牲となられた全ての方々」に取り込んでしまうことにより、差別と扇動よる殺戮という負の歴史を抹消してしまう。
8月25日の定例記者会見で、小池都知事は、「民族差別という観点より、災害の被害、様々な被害で亡くなった方々への慰霊をしていくべきだ」と話した(「小池氏「特別な形、控える」関東大震災の朝鮮人追悼文」朝日新聞デジタル2017年8月25日23時50分)。民族差別による虐殺という観点を捨象する。追悼文の送付中止が虐殺行為の否定を意味するとの批判があることについては「様々な歴史的な認識があろうかと思う」のなどと述べるにとどめた。小田嶋隆と同じく、言いたい(「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」〜世間に転がる意味不明 追悼文をやめて何を得るのか」2017年9月1日)。「民族差別というよりは」…というよりは、何だ?6000人以上と言われている虐殺の犠牲者は、民族差別による殺人の犠牲者ではなくて、一般の災害関連死と同じ「様々な被害」として一緒くたにまとめあげることのできる死者だというのか?と。小池都知事が「虐殺された」「殺害された」とは一言も言わず、震災の犠牲者と同じく「亡くなられた」とひとくくりにし続けたことにも、注意しよう。小田嶋が指摘するように、英語では虐殺の被害者を災害による死者と同じにはできず、murder、slaughterなど、「行為者の行為」を消すことができない。行為者の行為を消す強い意思を感じざるを得ない。
小池都知事は、「虐殺の事実はどう認識するのか」と問われて、「歴史家がひもとくものではないか」と述べた(「小池氏、虐殺の認識語らず「歴史家がひもとくもの」」2017年9月2日東京新聞朝刊・榊原智康記者・花井勝規記者・飯田克志記者)。認識を答えるのを拒否したと同視できる。
歴史家の仕事?すでに記録されてきたではないか。被害の全容は未だ不明である。加害者の責任もほとんど問われてない。しかしそれは、この国の政治や司法が怠惰であったからにすぎない。被害の全容を検証する作業が大切ならば、その事業を立ち上げればいい。研究に助成すればいい。何も犠牲者数を小池都知事自身に研究の上確定してほしいなどと誰も言ってはいない。ホロコーストの犠牲者数も明確ではない。しかしそれでホロコーストの犠牲については「歴史家の仕事」と突き放すドイツの政治家がいるだろうか。
2015年1月26日、ベルリンでナチスによる犠牲者を追悼する式典で、メルケル首相はこのように挨拶したという(「敗戦から70年・メルケルの誓い」ハフィントンポスト2015年2月9日更新4月10日・熊谷徹)。
「ナチス・ドイツは、ユダヤ人らに対する虐殺によって、人間の文明を否定しましたが、アウシュビッツはその象徴です。私たちドイツ人は、恥の気持ちでいっぱいです。なぜならば、何百万人もの人々を殺害したり、その犯罪を見て見ぬふりをしたのは、ドイツ人だったからです」。会場の最前列に座った二人の元強制収容所収容者を見つめながら、「お二人は、渾身の力を振り絞って、収容所でのつらい体験を語ってくれました。そのことに心から感謝したいと思います。なぜならば、私たちドイツ人は、過去を忘れてはならないからです。私たちは、数百万人の犠牲者のために、過去を記憶していく責任があります」と。
このように、この国で、この地域で、過去に行われた犯罪を心に刻むことの重要性を繰り返し指摘してほしい。それが、小池都知事ら、政治家の仕事ではないだろうか。