今まで教科外教育だった道徳が来年の2018年から小学校で、2019年から中学校で、教科化される。教科化の問題に私がおののき始めたのは、今年3月、小学校道徳教科書の検定結果が公表された際、パン屋を和菓子屋に変更して検定が通ったことが報じられ、驚き呆れたときである。しかし、問題はその一カ所だけではない。また、道徳の教科化が決まったのは、2015年3月の学習指導要領の改訂時である。気づいたのも、取り上げるのも、遅すぎる、と我ながら思う。しかし、「手遅れ」とぼう然としているわけにもいかないと、鋭意取り上げることにした。今回はまず、道徳が教科化された経過をたどる。
修身の廃止と道徳復活が阻止された経過
まずは、道徳が教科化された経緯に遡ってみよう。
何か昔も小学校の授業で偉人の話をきかされたような…、前から道徳ってなかったっけ、と不思議に思う人もいるかもしれない。それもそのはず、第二次岸信介内閣時代の1958年、「道徳の時間」が特設された。しかし、教科になったのは、それから58年経った2016年、第二次安倍晋三内閣のもとである。「自主憲法制定」を悲願としていた岸信介の思いを受け継ぎ改憲に執念を燃やす安倍首相のもとで、というのが気になってくる。
あれ。ではどうして教科ではなかったの?と不思議に思う人のために、手短に解説しよう(辻田真佐憲著『文部省の研究「理想の日本人像」を求めた百五十年』文春新書 等参照)。1930年代半ば以降、文部省のもと、共同体主義が過度に強くなり、軍国主義や神国思想がはびこり、修身の国定教科書には「国体観念」「日本精神」が尊重され、子どもたちは、「天皇に無条件で奉仕する臣民」こそ「理想の日本人像」と教え込まれた。敗戦後、文部省は、その反省に立って、「軍国的思想及び施策を払拭する」と宣言し、GHQが1945年に発した教育に関する四大指令のうちの一つ「修身、日本歴史及ビ地理停止二関スル件」により、修身、日本歴史、地理の教科書の使用停止及び回収が指示された。国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を三大原則とする日本国憲法の公布後、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」べく、教育基本法(前文)が制定され、「親孝行」に始まり「忠君愛国」まで説く教育勅語を排除する決議が衆参両院で行われた。
しかし、冷戦に入ると、GHQにとって、日本を民主的な平和国家ではなく親米反共国家にしたほうが使い勝手がよくなり、教育政策も中央集権的なものへ転換していく。右派議員は道徳を教科として教えなければ国民の道徳性が低下すると主張した。他方、経済界は、政治参加に熱心な市民ではなく、勤勉に働く「企業戦士」を欲した。このような文脈を背景に、文部省は、黙々と仕事に打ち込む人間の育成に力を注ぐ。その人間像は、共同体の一員であることを自覚し、責任を果たすという、かつての修身にもあった復古的なものと親和的でもあった。上記の通り、第二次岸信介内閣時代の「道徳の時間」の特設に至ったが、「修身科」の復活かとの批判も強く、直ちには教科とはならなかった。以後も、「少年犯罪の凶悪化」「モラルの低下」を口実に道徳を教科化する動きがあったが、その都度批判がわき起こり、阻止してきた。
一方で、1998年発足した日本会議は、「基本運動方針」のひとつに、「日本の感性をはぐくむ教育の創造」を掲げ、「教育に日本の伝統的感性を取り戻し、祖国への誇りと愛情を持った青少年を育成する」とした。1990年代後半以降、このようにナショナリズム教育の推進をうたう保守系団体が活発に活動するようになった。日本会議国会議員懇談会に所属する中曽根弘文議員らが道徳の教科書を作るよう国会で質問する等した後、2002年に文科省により作成された副読本「心のノート」が全国に配布されるに至った。2006年、第一次安倍政権の下、教育基本法が改められ、愛国心教育や家庭教育が盛り込まれる等し、改正前の個人の尊重を第一とする基本法の性格が根本的に転換させられた。内閣に設置された教育再生会議が道徳の教科化を打ち出す。しかし、文部省から諮問された中教審は、教科化するには評価が必要であり、心の中を評価することになるので、教科化になじまないと答申し、なんとか教科化は見送られた。
第二次安倍政権下での道徳の教科化…ご自分の道徳は…
第二次安倍政権では、2013年1月に教育再生実行会議を発足させる。同会議が、滋賀県大津市のいじめ自殺を機に、道徳の教科化を打ち出した後(いじめ防止に道徳教育が有効という検証はないというのに…痛ましい事件を口実にするのは道徳的な態度といえないのでは…)、第一次時の「失敗」を繰り返すまじということか、下村博文文科相(当時)はすぐには中教審に諮問しないという策をとり、「道徳教育の充実に関する懇談会」を設置し、推進派をメンバーに集める。その上で中教審の委員も入れ替えた上で諮問し、2014年10月、「特別の教科 道徳」を教科化すべきという答申を得る(「論点 変わる道徳教育」毎日新聞2017年24日大阪朝刊)。
上記の教科化は、出来レースのような答申を承けてのことであった。
道徳の教科化は、国による教育の統制を強めるのではないか…。道徳的価値として学ぶべき項目、国が戦前の修身を連想させないよう注意深く使用していないよういにしている用語である「徳目」を、国が学習指導要領で定めた上、教科書を国が検定し、その教科書を使用することが義務づけられる。欧米諸国では、概して教科書検定制度はなく、教科書の使用義務も学校や教師に義務づけられていない(「道徳の教科化②懸念は何か」(視点・論点)専修大学教授嶺井正也2016年9月28日NHK解説アーカイブス )。むろん、道徳は、今のところ、戦前の修身教育そのものではない。とはいえ、それに似通う、教師を媒体として国が子どもたちの生き方や考え方を規律するシステムが築かれてしまった。そして、検定教科書をみれば、総じて横並び、画一的な印象らしい。それもそのはず、検定制度があるがゆえ、それを乗り切るためには、無難な選択が教科書会社にとって賢明、ということになるのだろう(「教科『道徳』初めての教科書検定」早川信夫解説委員2017年3月24日NHK解説アーカイブス )。
どの口が道徳を語る…?
ところで、道徳教科化をリードした下村元文科大臣は日本会議国会議員懇談会副会長、親学推進議連事務局長等を務め(ウイキピディア)、公式ホームページで「教育再生、日本創生」を高らかに掲げている。と、加計学園から200万円の違法献金を受けた疑いが週刊文春に報じられた。下村氏は、都議選への影響を気にしてか力強く否定したが、かえって政治資金規正法上、あるいは「あっせん」について疑念を強めた(「郷原信郎が斬る 文春記事に「事実無根」と開き直った下村氏改憲の愚」文春記事に「事実無根」と開き直った下村氏会見)。強い否認は都の有権者の疑念を払拭スルには至らず、都議選自民の歴史的大敗の原因の一つとなったが、それ以上説明をしようとしないで切り抜けようとしている。週刊文春から、さらに文科相時代に後援企業の依頼で法務省に口利きした疑いも報じられたが、下村元文科大臣の説明を知らない。道徳に熱心なのに、説明責任を果たさない。彼の念頭にある道徳って、「権力者は責任を果たさない、下々は追及などせず従順にしておれ」というものなんじゃなかろうか…。
その他、森友学園問題、加計学園問題、自衛隊日報問題では、責任ある立場の政治家や官僚が、口々に、「記憶にない」とか、「記録はないが、記憶にある」、「記録は廃棄した」等と述べたりして、何が何でも安倍首相に忠誠を示そうとし、民主政のもとでの「全体の奉仕者」(憲法15条2項)たる公務員の責任を放棄した。安倍首相は、従前の答弁と矛盾する答弁をして何とか2001年1月6日に閣議決定された「国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範」の抵触をクリア、さらには、権力を友人のため私物化したことを誤魔化そうとしているとしか思えない(「加計問題、安倍首相の「1月知った」は酷すぎる 閉会中審査によって疑惑はかえって深まった」安藤明子 東洋経済オンライン、「安倍首相「加計学園が申請していることは、今年1月20日の決定まで知らなかった」議場からはヤジ」渡辺一樹2017年7月24日バズフィード )。
国税庁長官に就任した佐川宣寿氏は、財務省理財局長当時、国有地が8億円安く売却された経緯に関する国会での答弁で、売買交渉記録につき、「残ってない」「規則にのっとって適切に処分した」「(交渉記録は)廃棄した」「(担当者の)記憶に残ってない」等々の不愉快な語録を残し、「真相解明を阻んでいる」と炎上した。国税庁新長官は会見で抱負などを語ることが慣例になっているにかかわらず、会見申し入れをしていた記者クラブに、国税庁は8月8日、「諸般の事情で」会見しないことを伝えた(「森友問題答弁の佐川・国在庁長官 異例の就任会見なし」朝日新聞デジタル2017年8月8日 )。「全体の奉仕者」として仕事をしたと恥じるところがないなら、何をツッコまれても受けて立てるのではないだろうか。
ごまかしへつらい、無事栄転したら、定年退職までつつがなく過ぎるよう祈りつつ引きこもる。そんな姿ではなく、前川喜平前事文科務次官のように「あるものをないとは言えない」と言えるくらいの矜恃を示すことこそ、子どもたちへの「道徳教育」には有益ではないだろうか。
私たちの生き方をタガにはめられる…?
画一的な考えを押しつけ統制する国家的目論見…と道徳の教科化をおののく声を意識して、文科省は「考え、議論する道徳」なるキャッチフレーズを用いているが、しかし、こんなガチガチに統制したシステムを作っておきながら、シュール。2学年ごとガチガチに学ぶべきこと一覧まで定めていることからしても、空々しい(世界に類がないらしい)。
そして、その内容も、じっくり読めば、ツッコミどころが盛りだくさんだ。たとえば、「規律の尊重」では、小1,2「約束やきまりを守り、みんなを使う物を大切にすること」、小3、4「約束や社会のきまりの意義を理解し、それらを守ること」、小5,6「法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り、自他の権利を大切にし、義務を果たすこと」、中学「法やきまりの意義を理解し、それらを進んで守るとともに、そのよりよい在り方について考え、自他の権利を大切にし、義務を果たして、規律ある安定した社会の実現に努めること」。たとえば、「リボンの幅が3センチ以下」といった校則は意味があるのか」といった議論を始めた生徒は、「きまりの意義を理解した上でそれらを守ろうとしない」と道徳の評価が×になるのか。夫婦別姓を選択することすらできず、夫婦同姓を強制する民法750条が憲法、女性差別撤廃条約に違反していると異議申立てをした私たち別姓訴訟弁護団も、道徳の評価では×か。そもそも自分を恣意的な権力から守ってくれる根拠となる法のはずが、義務や規律を強調されているのがおかしくないか。
「家族愛、家族生活の充実」でも、「父母、祖父母を敬愛し、家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築くこと」(中学校)等と、家族の一員として目上に気遣え、役に立てと促す。戦前の縦の序列を強調し性差別も特色とした家制度を反省し、家族の中における個人の尊厳を強調した憲法24条が策定された経緯などなかったかのようではないか。「家族の一員としての自覚」の強調より、家族の中で差別され、虐待されたときに、そこから逃れるにはどうしたらいいかを考える気づきのほうが、よほど有益ではないだろうか。
家庭だけではなく、学校でも地域でも、その一員であることの自覚を強調される。「社会に尽くした先人や高齢者に尊敬の念を深め」(中学校)というのも先人や高齢者を無批判に称揚せよというかのようだが、となると過去の戦争責任、植民地支配の歴史を検証しては、道徳の評価がペケとなるのか。ひとりひとりが異質、個性があるものとして尊重されるという視点よりも、共同体主義が重視され、家庭、地域、そして、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家や社会の形成者として、その発展に努めること」(中学校)と国の一員としての自覚を促される。
こんなタガがはめられている以上、教科書が画一的なことは教科書会社だけの責任ではないのだ。
もうすでに相当な字数になってしまった。いざ書き出そうとした具体的な教科書の内容(繰り返しになるが、パン屋→和菓子屋だけが問題ではない)を取り上げたかったが、次回、あるいはそれ以降に、取り上げていきたい。