先日、友人と温泉旅行へ行った。車ではなく久しぶりに電車に乗って出かけた。新型コロナウィルス感染症が流行っていた頃、宴会の自粛があり電車に乗る機会が激減していた。
コロナ五類移行後、久しぶりに駅に来てみると、驚いたことに地元の駅が無人駅になっていた。新しく小学校が開校するほど人口が増えている地域だ。それにもかかわらず、駅員さんが複数いた駅が無人駅になっていた。
券売機で目的地までの切符を買い、電車に乗り込んだ。途中で一度乗り換えて、目的地の温泉に向かった。乗り換えた駅のホームと乗り換えた路線の電車内には、「不正乗車は犯罪です」と乗客に警告を発するポスターが何枚も貼られていた。駅員をなくし、切符等のチェックをする人を削減しておきながら、「駅員がいなくても不正乗車するなよ」と乗客を脅すJRの思惑が見てとれた。
せっかくの温泉気分が台無しになった。乗客を犯罪者扱いするようなポスターは気分のいいものではない。嫌なものを見た…と思いながらも、列車の中でしばし旅行気分を味わうべく、ビールとおつまみを広げた。のんびりと車窓の景色を楽しんだ後、温泉の最寄りの駅に降り立った。そこもやはり無人駅だった。その駅には監視カメラが設置されており、乗車証明書を発行するというQRコードのポスターが貼られていた。駅には券売機すらなかった。
乗せる側がすべきことを、乗る側(客)にさせておきながら、おこがましい経営姿勢だ。客は監視されながら利用しなければならない。嫌な世の中になったものだ。
セルフレジになったスーパーを思い出す。買いたい商品のバーコードを、客自らが一つ一つ機械に読み取らせ、袋に詰め、お金を払う。働かされながら買い物をするという理不尽な扱い。しかも店員と機械に監視されながらだ。
高校・大学時代、電車通学をしていた。その当時、駅のホームには駅員さんがいて、乗降客の安全や乗り換えの問い合わせなどに、すぐに対応してくれていた。国鉄の民営化反対の座り込みや集会等が行われていたのはこの頃だ。反対の声もむなしく、国鉄からJRへと民営化された。
当時高校生だった筆者は、登下校時の電車に乗り込むと、国鉄時代は椅子に座って数学の問題を解いたり英語の単語を調べたりしていた。車両が数両あり、通学時間帯でもゆったり座ることができていたのだ。民営化されると電車の本数が少なくなったり、駅員さんが減らされたりするのではないかと、高校生なりに危惧していた。
ご多分にもれず、電車の本数は少なくなり、車両の数も少なくなり、ゆっくり座って電車通学することができなくなった。椅子に座れたらラッキー、電車の中では立つのが当たり前。通勤通学のラッシュ時には、都市部での「すし詰め」電車を思わせるほど、車両の余裕がなくなっていった。
その後しばらくして、ホームの駅員はいなくなり、ワンマン車両が増えていった。電車の車掌の業務が増え、電車の運転だけでなく、乗降時のホームの安全確認も1人でしなければならなくなっている。効率化と引き換えに安全性が失われていった。もう元には戻らないのか。
温泉旅行から帰って、そんなことを考えて過ごしていた時『無人駅ホームな人々』という演劇を見る機会があった。この演劇は、視覚障害者が駅のホームから転落し、電車にはねられて亡くなった痛ましい事故をもとに作られていた。
視覚障害者にとって、ホームドアのない駅のホームは「欄干のない橋」「柵のない断崖」に例えられている。駅員がいれば、安心して利用できるはずの電車が、無人駅となって視覚障害者には自由に乗れない交通手段となってしまった。
車椅子利用者も同様だ。駅員さんがいれば乗降に手を貸してくれて、電車を利用できるが、無人駅ではそうはいかない。車椅子ユーザーにとっても、電車は自由な乗り物ではなくなった。
無人駅で困るのは、障害者だけではない。先日筆者の友人が電車を利用した際、乗り間違えて慌てて降りた駅が、やはり無人駅だったそうだ。その時は雨が降っており、ホームの待合室に入って、雨宿りをしながらベンチに座っていたら、見知らぬ男性乗客が中に入ってきたという。
その男性に罪はないが、無人駅のホームの待合室に見知らぬ男と2人きりになった女性の気持ちを想像してみて欲しい。その友人は恐怖を覚えたと語ってくれた。駅員さんがいれば、万が一の時に助けを求められるのにと。
普通列車を減らし、弱者を切り捨てる一方で、豪華列車を走らせ、金持ち優遇の旅を提供するJR。人間誰しも歳をとれば弱者になっていく。高齢化が進む日本には、弱い立場に立って経営していく企業理念が求められるのではないか。