先日、ニュージーランドで長いこと、看護師として働いている人に出会った。いろいろ話したがやはり1番の驚きは、医者との対等な関係性を看護師たちが作っていると言う事。私は2011年の東日本大震災による原発の爆発事故から放射能避難で、3年間ニュージーランドに住んでいた。その時、耳の中に異物が入った気がしてどうしても気になり病院に行った。颯爽と出てきたのは看護師で、耳の中を見る機械を上手に操って、すぐに診療は終わった。そして、きっぱりと「それらしいものは全くないよ。でも気になるようならまた来なさい」と言われた。思わず、「医者の診察はないのですか?」と言ったら、え?という怪訝な顔つきをされて、「これは看護師の仕事なのよ」とにこやかに言ってきた。
今回日本から来て20年近く看護師として働いている彼女の話を聞いて看護師の地位がここまで確保されているのは、女性差別の背景が日本と全く違うと言うことであるとさらに確信した。
私が幼いときには、看護師は看護婦と呼ばれ女性ばかりの仕事であった。男性医師を立てまくり、その補佐をすることが仕事で、自分の意思で知識や技術を使いこなしているようには見えなかった。手術の後の注射をするために必ず来るのは男性の医師、その側に何本もの注射器をトレーに乗せて重々しく掲げるばかりについてくるのが、看護婦たち。何回かの医者による手術直後の投与が終わると、その後からは看護婦1人で入ってきて、幼い私の腕やお尻にぶちぶちと彼女らが注射を打ってきた。
記憶の中では男性医師だから注射が上手で痛くなかったのかと言えば、そうではなかった。看護婦の方が、言葉付きも物腰も柔らかいのでどうして初めから看護婦が来ないのだろうかと、幼いながらいぶかんだものだ。医者にも看護婦にもあまりに痛いときには、私は「へたくそ」とか「出て行け」とか「やめろ」とか叫んだ。でも、その叫びに対して医者は露骨に嫌な顔をして、そばにいた私の母に向かい、「こんな生意気なことを言う子に育ててはいけない」と説教してきた。それに対して看護婦たちは「痛いよね」と繰り返して慰めてくれるだけで母にきつく当たる事はなかった。
日本の中では、当時は看護婦は徹底的に医者の指示で動く人であった。自分が完全に任されている分野もあったかもしれないが、それもまた例えば手術の準備とか、患者の体の清掃とかあくまでも補助的なものであった。それに対して、ニュージーランドの看護師たちは、医者たちの補佐ではなく対等に看護師としての分野がある。また日本では医者がいるところには看護婦も必ず1人か2人立っていたが、ニュージーランドの医者たちは、例えば診断書が必要な患者が来た場合、1人で向き合って書類を書きこんでいた。日本は今でこそ医者が1人で向き合うことも見受けられるようになっては来たが、診察室の中に看護婦がいる場面もまだ少なくはないだろう。
そんな中、日本にはピンク病棟という言葉があるということを最近聞いた。ある意味セクハラが公認されている病棟で、もちろん全ての病院にあるわけではない。ただ、日本の学問界にはアカハラ、マスコミ業界にはマスハラ、芸能界のセクハラもジャニーズ問題によって告発されてきているが、医療界のセクハラはまだまだピンク病棟という名の揶揄、中傷でしか言われてないようだ。
どういうことかというといくつかの病院に医師によるセクハラが公認され、そのセクハラの中で看護師たちが自分の地位を確保していくべく様々な務めを果たしているという病棟のことをいうらしい。その中では競争を煽られた女性同士が、セクハラによって心を病んで辞めていくことが常態化している。ある病院のその病棟にたまたま私の友人の娘が配属された。数週間目に強烈なセクハラを受け、彼女は即日でその病院を辞めた。その素早い行動によって、その組織は大きく改変はされた。しかし、改変はされたがその根が瞬く間に断ち切られるかというと、その希望は大きくはない。
思い起こせば、私は通信高校を中退したのであるが、その時の同級生たち2人が看護婦であった。今から50年以上前のこと、そのうちの1人が会う度に「今回はレントゲン室で抱きすくめられてキスされた」とか、「夜勤の時はどの医者とペアになるかドキドキよ」とか、ついには「その医者の1人から性病をうつされて、他の医者にもうつったかも」というような恐ろしい話をいっぱい聞かせてくれた。彼女は「医者と結婚して病院を辞めることが私の夢」だとよく言っていた。
10代の終わりにいた私はその話を聞きながら、女性が看護婦になりたがるのはそういうことなのかと看護婦にもなれない自分の身体を呪ったものだった。あの時代にはピンク病棟ではなく、どの病院もピンク病院であったに違いない。その時にはそれがあまりに当たり前だったろう。それに対して今は、医者と看護師のヒエラルキーが少しは改変されてピンク病院がピンク病棟に縮小されたかもとすら思ってしまう。(ブラックユーモアというべきか)