◇雛祭りは不幸だ◇
内裏雛は天皇・皇后になぞらえた雛人形だ。
雛人形を見るたびに、子どもの頃にみた結婚記者会見の記憶が蘇る。
当時の私はまだとても幼くて、内容のすべては理解できなかったけど、"雅子さんのことは、僕が一生全力でお守りします"というプロポーズの言葉が大きく報じられたことが印象的で、当時の熱気や空気感は朧気ながら記憶に残っている。とてもロマンティックな文脈で語られていたと思う。
なのに、幸せになるはずの雅子さんの体調がみるみる悪くなっていくのが子ども心に不思議だった。
今ならわかる。"跡継ぎを産め"という出産のプレッシャー、公務のプレッシャー(それは女性らしさの規範を体現する行為でもある)、家父長制の抑圧、ありとあらゆるプレッシャーに圧し潰されていたのだろう。
家父長制なんてシステムそのものが女性に対する暴力だろう。
ちなみに、プロポーズに対する雅子さんの言葉はこうだった。
"私がもし殿下のお力になれるのであれば、慎んでお受けしたいと存じます。"
"お受けいたしますからには、殿下にお幸せになっていただけるように、そして、私自身も自分で『いい人生だった』と振り返れるような人生にできますように努力したいと思います。"
ここに込められた抑圧とプレッシャーを私が理解できるようになったのは最近の話だ。
◇女性にとっての"いい人生"ってなんだろう◇
聡明で優秀だった小和田雅子さんは皇室に入って以降抑圧されてメンタルヘルスが壊滅的に悪化していくように見えた。
彼女は複数のアイビー・リーグ大学に合格した末ハーバードを卒業した、とても優秀な外交官だったのに。
雅子さんだけじゃない、美智子さんもダイアナも、"プリンセス"たちは抑圧的な"しきたり"の中で人間性と精神的な自由、そして苗字を奪われてきた。
皇族だけじゃない、女性はたびたび「メンヘラ」だとして馬鹿にされるけど、「女はすぐ病む」というのは大きな間違いだ。
健康な女を病気にさせる抑圧構造が家父長制・女性蔑視社会にはある。
◇「女の子の健康と幸せ」を願うとき、「男」は不要だ◇
現代の雛祭りは女の子の健康を願うとされるが、子どもの健康や幸せを願うとき、そこに男(御内裏様)がいることに納得がいかない。
綺麗な着物を身に着けた男女一対の人形に嫁入り道具。
私にはこれらが女の子たちを家父長制の支配下へと誘導する不幸のメタファーにしか見えない。
子どもの健康や幸せに条件を課してはいけない。しかもジェンダーギャップ、権力勾配ありきの条件を課すなんて、なんの知識もない子どもたちを抑圧構造の維持に強制的に加担させる暴力以外の何者でもない。
子どもには、誰のためでもない、自分のために健康であってほしいし、自分のために幸せでいてほしい。
近年、雛祭りをシスターフッドの枠組みで再解釈、再定義しようとする試みが散見されて、それ自体はとてもいいことだと思うけど、ひなあられひとつ、はまぐりひとつ、つぶさに気持ち悪い願いが込められていて辟易する。
「日本の伝統」に家父長制の枠組みから自由なものはひとつとしてないのだ。
◇お姫様にならなくていい◇
私は娘を"女"ではなく"人間"に育てたい。
だから雛祭りは完全にスルーしてきた。
祝福の体裁をとりながら内実では家父長制へと誘導する、こんな残酷なイベントがあるだろうか。
女の子はお姫様にならなくていい。
女の子は、富裕な男性に見初められるための美しい容姿より、自分の力で生きられる経済力を備えてほしい。
あらゆる女の子が、男性に支配されずに、抑圧されずに、モノや資源ではなく人間として生きられる社会を作りたい。
女性が結婚しなくても生きられる社会にしないといけないし、一度は結婚した人でも、経済的な不安やバッシングの心配なく離婚できるようにしないといけない。
私は仕事でもプライベートでも、常態化したDVに遭っているにもかかわらず、経済的な憂慮から離婚できない妻たちを無数に見てきた。
離婚歴を「バツ」で表現するように、日本には離婚に対する失敗のイメージがとても強い。
こうやってスティグマ化させることで女たちに離婚を躊躇わせ、自由になれる可能性を奪い続けたいんだろう。
"一人の相手と永遠に添い遂げてこそ幸せ"だなんて、家父長制による支配を美化したロジックにすぎない。
女性に授けるべきは、美しい容姿や豪華絢爛な衣装、充実した嫁入り道具ではない。
女性に真に授けるべきは、学問であり、支配に抗い得る知識であり、誰にも遠慮せずに生きられるだけの経済力だ。
すべての女子たちが、男の顔色をみずに、かけがえのない自分のために生きられる社会にしないといけない。
◇女性が尊厳ある個人として存在できる社会を◇
私は自分の娘に、「あなたはかけがえのない存在だ」と伝えてる。
それは、親の自己実現の材料としての"ママの自慢の娘"ではない。
"将来の結婚相手のために守るべき清らかな身体"でもない、産むことを想定された"将来の子どもの母体としての大事な身体"でもない。
"誰かの"ではない。
娘には、「あなたは誰の所有物でもない、唯一無二のかけがえのない存在だ」と口酸っぱく教えてる。
女の子に不適切な期待を掛けてはいけない。
女の身体は資源じゃない。
なのに社会には、女性の身体を資源として有効活用したがる抑圧的なメッセージが溢れてる。性も生殖も愛嬌も、あらゆるものが資源化され搾取される。
大人たちは女の子を「優しいね」と褒めるけど、この言葉は「優しくしなければお前は薄情者だ」という脅迫が表裏になっている。
優しさを振り撒かない女は人格否定されるという分の悪い規範を女性たちは押し付けられ、その規範が故に優しさやケア労働を無限に搾取されてきた。
ジェンダーロールは目には見えないが確実に個人の選択肢に制約を掛ける。
性役割という名の拘束着を着せてはいけない。
少女の身体は誰のためでもない、少女自身のために存在してる。
少女の人生は誰のためでもない、少女本人のものだ。
◇対等に生きられる社会を◇
私は繰り返し繰り返し女性から経済力を奪うなと怒ってきたけど、角田由紀子さんも女性蔑視と経済格差について熱弁していた。セクシュアルハラスメントだって性別賃金格差と無縁ではない話だ。これについては「セクハラ問題の30年」というテーマで日本記者クラブの動画が視聴可能だ。
そして私自身がそうだったように、この国の女たちは危機に瀕して経済的苦痛か性暴力の二択を迫られる。
どちらも選ばなくて済む社会を実現したい。女性が安全に生きていくには、一にも二にも男性と対等かそれ以上の経済力が必要なのだ。
◇高所得男性の妻になるより◇
先日、有名なプロ野球選手の結婚報道があったとき、羨ましさを叫ぶ女性たちの声がSNSで散見されたし、羨ましがる女を馬鹿扱いする男も散見された。
これだけ「羨ましい羨ましい」という声があるのは、それだけ日本の女たちが経済力を奪われてることの証左だろう。
女が当たり前に稼げる社会にしないと駄目だ。
無理せずとも苦労せずとも、当たり前に稼げる社会にしないといけない。絶対にそうする必要がある。
◇男性優位社会の責任は男性たちが取ってくれ◇
よく「どうせ女は金目当てだ」「妻は俺をATM扱いしてくる」と不満を漏らす男性がいるけど、こういうことを言う男性で、性別賃金格差を是正するために声をあげてる人を見たことがない。
要するに現状の格差構造の維持に加担しておきながら、その帰結である女性たちの経済的依存を責めている。
性差別の上に下駄を履き、女性たちから経済的に独立できるだけの力や機会を取り上げておきながら、女性を金銭的に卑しい存在として非難する態度は随分だと思う。
女性たちの経済的自立を阻んできたのは他でもない男性優位社会だろう。
経済的にも精神的にも女性たちから自由を奪い、纏足状態にしてきた歴史の深さを顧みる必要があるはずだ。