「子どもをのびのびと育てたい、幼児期は思い切り遊ばせたい、子どもにとって大切な時期だから・・・」そんな思いをもつ親たちが集まって、運営している自主保育グループ「D幼児教室」が私の地域にあります。うちの下の子もその自主保育で育った一人です。
先日、その幼児教室の学習会講師を頼まれて出かけました。とても久しぶりです。
「D幼児教室」はコツコツと30年近く続いていて、古くからある地域の公会堂が拠点です。そこは相変わらず子どもたちの居場所で、ちょっと世の中から解放されたような空気が漂っています。専用の建物をもたない(もてない)けれど、多くの子どもたちを育てあい、そして巣立っていきました。
建物は古くなったけど磨き抜かれて黒光りする床板は、はだしで走り回る子どもたちの足裏のおかげでしょうか。学習会の間、珍しそうに近づいてきて私の顔を覗き込む子、ママの膝でゴロゴロする子、子どもたちは私や親のことなどお構いなしです。久しぶりの乳幼児たちの痛快な行動に、私自身も昔にタイムスリップする気分、そんなささやかな温かい集まりでした。
「子どもとの関係や、ママ友ともラクにコミュニケーションがとれるようになりたい」という親たちからのリクエスト。
そうなんだ~、今どきの自主保育をしているママたちが、どんな関係性なのか様子がわからない。レジメやパワポは準備したけど、じっくりお互いの話ができるようにしたほうがよさそう。なので、初期の自主保育時代のエピソードや今どきママたちの悩みをやりとりしながら、久しぶりの子育て談義となりました。
私が自主保育に関わっていたのはもう25年も前ですが、当時は乳児から年長さんクラスまで、けっこうな子どもたちが集まっていたのに、今は3歳児までしかいません。子どもが集まらない、就園年齢になると幼稚園や保育園に行っちゃう。へえ、なんだか寂しいね。なんでだろうね?
自主保育では親の関わりや負担はかなりハードです。「こんなふうに子どもを育てたい」と思っても、理念や趣旨に共感しても、フルタイムで仕事をしている人には残念ながらハードル高い活動です。
親たちは、みんなまだ若くて、未経験で、でも何かにこだわりがあってつながってきています。運営を含めて自主自立を目指す場では、覚悟もいるし、お客様ではいられません。
たとえば、毎日の送り迎え、子どもの付き添い当番、親のミーティングなど、子どもたちの保育や活動を優先しながら、すべてを親が分担するので仕事は山ほどあります。
さらに子どもどうしのけんかや問題行動にはどう対処するのか、保育方針をめぐっての親の葛藤や対立もあれば、保母に対する期待や不満なども。何時間もかけて議論することも・・・とにかく忙しくて大変だけど、みんなパワーがありました。
私にも、あんなガチンコ時間があったからこそ、お互いを理解して関係を深めていけたんだと思います。
当時はかじりたてのジェンダーやフェミニズム、パートナーとの関係まで、知識としてはまだヨチヨチ歩きだったけど、子どもの人権や女性の人権にまで話題は広がったものでした。今思えば、私も若くてとんがっていたなあ、と思い出して苦笑いです。
当時の私は2人目の子がとにかく意志が強い大変な人で、彼に合わせて生活をするしかないヘトヘト状態でした。自分がつぶれないために、自分の優先順位を考えるしかなかった。だったらこの時間をチャンスにしないと損だわ!と発想を切り換えたのです。そうでなければ出会えなかった人たちもたくさんいます。自主保育だけでなく、ある意味、フツーの社会感覚からドロップアウトしたところって、アブノーマルな人たちの場でもあるし、だからこそ相互尊重や共感の場になるし、個性のぶつかりあいの場にもなりますよね。
いずれにせよ、あのころは、子どもたちは遊びと自由を謳歌し、親たちは自分の子育ての価値観や生き方を問われ再考する、濃密な経験をたっぷり味わった時間でした。
さて、学習会に戻ります。それで、今あなたたちはどうなの? (回顧談はけっこう美化したいものですから)
ちょっとキュークツな関係があるのかな? 何がキュークツにさせているんだろう?
腹を割って話せないのも、何か理由があるのかしら? そこを考えてみようか。
うわべだけの関係で終わるのか、言いたいことは言ってみて、お互いを理解しあえるようになるかは、それぞれが選ぶしかない。誰とでも腹を割りたいわけじゃないものね。
私だって、嫌いな人はいるし、無理に好きにはなれないでしょ?
子どもが減っているのは、おとなが幼稚園や保育園を選んでるんだから、仕方ない。
ただし、自主保育で自分のことは自分で決める、そうやって尊重されて育つ自立的な子どもたちが、幼稚園や保育園はまだしも、学校に縛られるのを嫌がる、疑問をもったりする子は少なくないでしょうね。自主保育育ちの子たちの不登校率が高いのは事実だし。
「私のことは私が決める」なら、どんな学校なら行きたいか、選んだり考えるのは子どもたちの力がある証拠でしょ。そのことも含めて覚悟しておいたほうがいいよ。
そのとき親の一人Sさんが、「子どもが学校に行ってない」とポロポロ泣き始めました。
ここにもいましたか。それで、あなたは困っているの? 何が心配なのかな?
あなたがここで、子どもに学んでほしいこと、身につけてほしかったことはどんなこと?
ここでは自分のことは自分で決めていいよ、って育てている。
その理念のもとに、子どもたちの自己尊重感と自己決定の力を信じた保育が柱なのだから、子どもたちは健全に発達しているといえるじゃないですか?
子どもたちに自分の意志を尊重して生きていける基盤を提供してきたのに、どこかで「それはここまでね。ここからは社会の思惑通りに生きていかないとダメだよ」と思っていない?
子どもの自主性に任せるって、どういうことだろ? 私自身もそれを突き付けられながら彼らにつきあってきたと思う。それって「誰の問題?」だろね。たいていは、世の中を生きていくために、少しずつ馴らして育てないと学校や社会で生きていけないと多くの親は心配しているのでは? 世の中がいうところのルールに親が縛られていない? 揺れていないかしら?
「子どもを信じる」って簡単に言うけど、「子どもが心配」ってよく言うけど、ほんとにそうかな? 彼らがどういう道を選択しても、子どもの邪魔をしないでいられるか、親はそこが問われてると思わない?
今だけを見て一喜一憂している自分と向き合ってみませんか?
これって、誰の問題かな?