「配偶者控除」廃止はまたも先送り
前回、配偶者控除の廃止が盛んに報じられてはいるが、「夫婦控除」という、結局ライフスタイルの選択に中立的でない案が模索されてがっかりということを取り上げた。しかし、それでがっかりするのは甘かった。自民税制調査会では10月中旬から議論を始めるそうだが、せいぜい、控除が適用される配偶者の給与収入の上限を引き上げる程度の議論をしよう、いやいやそれも総選挙を意識すると先送りしよう、などという話になっているというのだ(10月7日5時17分NHK NEWS WEB)。
全国婦人税理士連盟(現・全国女性税理士連盟)が『配偶者控除なんかいらない!?-税制を考える、働き方を変える』(日本評論社)を出したのが、1994年。民主党(当時)が「配偶者控除を廃止し、子ども手当の財源に当てる」と明記したのは、2009年衆院選の政策集INDEX2009。ちなみに(しつこい(^_^;)?)、この政策集INDEX2009には、「民法を改正し、選択的夫婦別姓等を導入します。」と明記していた…(遠い目)。
配偶者控除、またも先送り?いったい何十年先送りしたら気が済むのか?って、どうしてまた総選挙の話が浮上するわけ?首相が好き勝手に衆議院を解散できる、そんなこと、ありですか?このあたりの議論も注目されて深められているとはいえないが、本当に疑問だ(こちらを参照。「間違いだらけの違憲選挙」)。まあそのあたりを話すと長くなるので、はしょる。配偶者控除に戻すと、それでも報じられるだけいいか、選択的夫婦別姓に比べたら…。いや、やさぐれていても意味ないからこらえよう。
「通称使用でいい」?だけど「通称使用を認めなくてもいい」?
やさぐれず、やさぐれず…と自分に呪文を唱えていたが、う。再び、「うっ。うううっ」と叫ばざるを得ないニュースを知る(「旧姓使用、なぜ認められなかった」朝日新聞2016年10月11日21時38分 塩入彩記者・杉原里美記者)。私の事務所の弁護士も弁護団で頑張ってきた事件だ。
都内の中高一貫校日本大学第三中学高校の30代の女性教諭が、2003年から同校に勤務し、13年7月に結婚し改姓し、学校側に旧姓の使用を認めるよう申し入れたが、それを認められなかった。想像してみよう。30代、あるいは20代までずっと、「打越さく良」(たとえば)で生きてきた。ごく親しい人を除き、日本では通常氏で呼ばれることのほうが多い(「さく良さん」より「打越さん」のほうが多い)ことからしても、「打越」は「私が私である」こと、人格に密着しているのだ。「打越さく良」は、私にとって、国から特定のために付与された「マイナンバー」のようなよそよそしい記号ではなく、私が私であることときりはなせない。「打越さく良」のままでいたい私が、自分では望んでいないのに、「打越」をはぎ取られることは、「私」の人格を揺るがす。民法750条が夫婦同姓を強制するために、婚姻にあたり戸籍上やむなく改姓しても、せめて、長い時間をそこで生きる職場では、「打越」を通称として呼んでほしい。同じ職場で10年にわたり、「打越先生」として教鞭をとり、卒業生在校生にも「打越先生」として慕われてきた。それをある日「★☆先生」とよそよそしい、自分のものとは思えない戸籍姓に切り替えることを強制しないでほしい。勤務先が、こんな切実な願いをはねつけ、自分のものとは思えない戸籍姓であえて呼ばれる。生徒たちや同僚からは、「打越先生」と呼んでくれる。あえて「打越先生」ではない戸籍上の姓で呼ばなければいけない切実な理由など何もない管理職だけが、あえて「★☆先生」と呼んでくる。弁護団がいうように「一種のパワーハラスメント」、それを日々受ける。なんという酷な毎日だろうか。痛ましい。個人を大切にし、個々を伸ばす。そんな場所であってほしい学校で、個人を尊重しないということも、なんと皮肉なことだろうか。
ところが驚くべきことに、東京地方裁判所の男性裁判官3人の合議体は、旧姓使用が広がっていることを認めつつ、「旧姓を戸籍名と同様に使うことが社会で根付いているとは認められない」と結論づけ、女性の旧姓の使用と損害の賠償請求を斥けたのだ。理由として、旧姓使用が認められていない国家資格が「相当数」あることを挙げたという。
ちょ、ちょっと待った!忘れもしない夫婦別姓訴訟の最高裁大法廷判決(2015年12月16日)は、夫婦同氏制のもとアイデンティティの喪失感を抱いたり、個人の社会的な信用、評価等を維持することが困難になったりするなどの不利益を受ける場合があること、そして女性が不利益を受ける場合が多いことを認めつつ、通称使用が広まっているから、この不利益は一定程度緩和されるということも、民法750条が憲法に違反しないことの理由にしていたのではなかったか?
あっちでは、「通称使用できるからいい」といわれ、こっちでは「通称使用なんて認めなくていい」といわれ…。あまりに一貫性がない。いや、苦しんでいる女性への痛みへの想像力が無い、という点では一致しているか。最高裁大法廷判決の多数意見の10人の裁判官も、東京地裁判決の3人の裁判官も全員男性だ(その点に注目するハフィントンポストの記事「職場での旧姓使用、認めない判決女性裁判官ゼロだった」)。性別で生得的に判断が変わるとは思わない。そんな本質主義的なことは言わない。しかし、経験が、他者の痛みを想像できるかどうかは、影響するのではないか、とまざまざと感じる。
「女性の活躍」なるスローガンが掲げられながら、女性が同じ姓でいることを認めない国会、裁判所。そこで「女性が活躍」するようにならなければ、変わらないのか。「女性の活躍」を阻む婚姻改姓を改めるべく、「女性の活躍」…ニワトリとタマゴ…。
通称使用が拡大しても両性の本質的平等は実現しない
四の五の言わずに、制度を変えるべく発信を続けねば。今回の判決後、私もおかげさまで続々取材を受けた(BuzzFeed News 2016年10月12日17時23分渡辺一樹記者、ハフィントンポスト 2016年10月12日17時23分 泉谷由梨子記者)。虚空に向かって憤っているのではなかった。受け止めてくれ、共感してくれる人が多数いることに、元気づけられる。はい、絶望しないで、頑張ります。
ところで、以前から書いているけれど、通称使用は苦肉の策。通称使用が拡大しても、結局戸籍上の改姓を余儀なくされ、ダブルネームの負担をもっぱら女性が負うなら、やはり、憲法のいう両性の本質的平等や、女性差別撤廃条約に違反する。通称使用の拡大がゴールではない。民法750条を改正し、選択的夫婦別姓を実現することが、憲法の、そして女性差別撤廃条約の要請であり、私たち(ほぼ100%女性)の願いだ。
うん。「こんちくしょー、男裁判官ども…男議員ども…」と呪詛しているヒマはない。がんがん、発信していかないとっ!キリッ。