『あなた、その川を渡らないで』(韓国2014)という映画を観ました。江原道の美しい小さな村で暮らす、結婚76年目の98歳の夫と89歳の妻の生活をつづったドキュメンタリーです。
お互いをいたわりあい、いつも笑い声が響き渡る、愛にあふれた仲睦まじい暮らしを送る名もなき老夫婦。その白髪の恋人たちの姿は、奇跡ともいえるような、純愛物語でした。
二人はおそろいの服を着て、手をつなぎ、いつも一緒に出かけていきます。
春、山菜を採ってナムルを作る。花を摘みお互いの髪に飾る。
夏、昼下がりのお昼寝をする。縁側に腰かけて話しかけ、笑いあう。
秋、庭の落ち葉を掃く。集めた葉っぱを投げてふざけあう。
冬、真っ白になった庭で雪を投げあう。凍りついた相手の手に息を吹きかけて温めあう。
監督のチン・モヨンは15カ月間にわたって、二人によりそうように密着し、お互いをいとおしむ日常の暮らしと小さな村の美しい四季の様子をカメラに収めています。
撮影に入るにあたって、二人の年齢を思えば、病気や死などは十分にありうることと覚悟もあったようです。やがて夫は衰弱がすすみ、永遠の別れが近づくことに。妻は彼が「天国でも着られるように」と衣服を少しずつ焚き木にくべていきます。そして最期の看取り、「世界で一番好きだったあなた・・・」と泣きながら見送る涙と背中を映し出していました。
ああ、こんな夫婦が本当にいるんだなあと、胸にしみいるものがありました。
老夫婦の物語にもかかわらず、映画の評判は口コミで広がり、小規模なスタートから最後は800スクリーンで上映され、韓国ドキュメンタリー映画市場最高の480万人の大ヒット。国民の10人に1人が観た数字ですが、その約半数が20代の若者だといいます。世界中の映画祭でも上映され、ロサンゼルス映画祭最優秀ドキュメンタリー作品賞を受賞しています。
名古屋の上映館も小さなミニシアターでしたが、お盆や夏休みのせいもあるのか、いつになく観客が多くて驚きでした。
監督のインタビューの一部を引用します。
「韓国の20代は今までにないほど長く暗いトンネルを通っています。将来に希望を見いだせない状況に陥っている。本来だったら青春真っただ中ですし、愛情を求める年代です。でも、愛情も駆け引きばかりでつきあってもすぐに別れてしまう。本物の愛を求めていながら、本物の愛なんてないと思っていた若者たちが、この映画を通じて不可能だと思っていた愛を目の当たりにしたわけです。不可能な愛が現実に存在する。それを知ったときにある意味、彼らは希望を持てたのではないでしょうか。おじいさんとおばあさんの愛と、自分が求めている愛を同一視できたのではないかと思います」
そうですね、確かにこの夫婦の愛に満ちた暮らしや穏やかで平和な姿に触れたことは、私にとっても癒しとなり、自分の暮らしや関係性をふりかえる時間となりました。
監督の言うように「本物の愛」「不可能な愛が現実に存在する」というのは、確かに希望となりえます。自分にだってそんな出会いがあることを信じてみようとか、あきらめないで「本物の愛」を実らせるようにしていこう、あんなふうに愛し合いたい、とか。
ドキュメンタリーだからこその、訴求力があるのだと思えます。
韓国に限らず、日本の若者も置かれている状況は似たようなものでしょう。日本の18~39歳の未婚者で、「交際をしている異性がいない」女性は5割、男性は6割(厚労省)です。どうしてこうなってきたのか・・・。これから先、どうなっていくのか・・・。
これは単に恋愛や結婚に限って考えることではないといえます。
経済や政治の問題がからむ、尋常でない現状、社会構造や背景と無縁ではありません。あたりまえなはずの穏やかな世界が脅かされて、夢も希望も捨てざるをえない厳しい現実を生きているのは、若者に限ったことではありませんよね。
Personal is political・・・ 個人の問題ではなく、政治と社会の問題なのです。
このコラムでは、信頼や安心感、いたわりや相互尊重の関係がくずれてしまった問題やテーマを取り上げて、問題の本質はどこにあるのかを考えようとしてきました。
フェミカンルームでは、暴力、虐待、恐怖や、怒りや不満、憎しみや悲しみ、孤独や孤立感など、愛とは真逆の世界で苦しみを抱える人と向き合うことがほとんどだからです。いずれ、その苦しみや辛さから脱却して、自由で幸せな時間を手に入れるために。
この映画は、「暴力」の対極にある「愛の世界」を映し出しています。
この老夫婦の平凡な日常の中にある愛、平穏でなだらかな時間と幸せ、与えあう愛、許しあう愛、それを感じあっている愛の世界を人々に示そうとしています。そんな世界で生きてみないか、と諭され、促されているように思えました。