最近、(たまには楽しい話を書こう)と思い、普段と毛色の違うテーマで原稿を書いたものの、読み返すと結局悲しい話になってて、(また同じ色になってしまった・・・)と落ち込んだ。
これがまさにその原稿だけど、自分から引き出せる知識や経験の在庫の偏りと、そうした情報を自分以外の他者が読んで理解可能な体裁に加工する技術の不足を痛感した。
(つまらん人間だな~私は)とがっかりしつつ、(あぁでも私はエンターテイナーじゃないんだから、つまんなくていいんだよ)と持ち直した。なんだか"愚痴は楽しく話すのがマナー"だし、"話にオチがないと駄目だ"みたいな刷り込みを強く受けて育ったけど、つまんなくていいんだよ。
あの、人前で話すときは楽しく話さないといけないというプレッシャーはなんだったんだろう。自助グループなんかでも、ときどき話がめちゃくちゃ面白い人がいるけど、(この人はもしかして、小さい頃から緊張感のある家で緩衝材として機能するためにピエロになって、エンターテイメントを提供する役割を果たしてきた人かな…)と想像して勝手に切なくなったりしてる。何を隠そう私自身がそんな感じの人間だ。
普通にしてていいんだと気付いても幼少期から身に着けてきた生存戦略は簡単に脱ぎ捨てられないのが悲しいところだ。
とはいえ、私には、秀でた才能もない普通の中年女性の社会的地位を向上させたい願いがあるのでつまんない原稿もこれからは恐る恐る出していこうと思う。面白い話や生産性の高い話にしか価値が付かない世界は嫌だ。
私の劣等感を刺激しないもの
身バレが怖いのであまり趣味の話は書かないようにしていたが、最近ちょっと感動する商品を買ったので感動をお裾分けしたくなった。
私は、メルカリやヤフオクなどでジャンクスマホやジャンクPCを眺めるのが好きだ。「好き」というのは語弊がある。放心状態でスクロールして時間を溶かしてしまうことが多い。画面がバリバリに割れたスマホや、「起動に難があり、再起動を繰り返します」「突然シャットダウンします」といったジャンクPCの説明文を読むにつけ、(あぁこのパソコンは私みたいだね・・・)と心を寄せて一方的な慰めを受け取っている。
私には友達がいない。いてもすぐ羨ましくなって薄暗い感情に飲まれてしまうから普段は距離を取っている。仕事は守秘義務の縛りが強く、安易に愚痴も言えない。極めて換気状態の悪い、閉塞的な生活を送っている。眩しい世界が苦手で、ひとりで足の裏の皮を剥いたり、かさぶたをはがしてる方が落ち着く人間だ。剝奪次元の高い環境で育ったせいでどんなものでも眩しく見えてしまう。
心のさもしい私は、人の幸せを喜べないことも多い。回復する仲間を見て、置いて行かれたと感じて一人でさみしくなってしまうこともある。そのさみしさは打ち明ける場所を獲得できないまま、夏場に冷蔵庫に入れ忘れた牛乳のようにあっという間に腐臭を放って処分に困ってしまう。
そんな私に静かで無害な感動をもたらすのが「ジャンクPCを修理する系YouTuber」だ。とはいえ、そんなに熱心に観てるわけでもないし、彼らの人格は知らない。ただ、手際よく黙々と直す姿や、ときに失敗して、諦めたり粘ったりする姿に感動している。
パソコンが直るのは嬉しい。直してもらえてよかったねえ。私もこんな風に修理されたい。私もメモリ増設してほしい。トラウマ記憶が記録されてないハードディスクに入れ替えてほしい。そんなことを考えながら、相手が人ならぶつけることが躊躇われるような羨ましさを好きなだけぶつけている。加害恐怖の強い私は相手が人だと自分が感情を持つことを遠慮しがちだが、相手がパソコンなら遠慮は要らない。心置きなく妬ましさをぶつけることができる時間なのだ。
ネジザウルスが強い
大学のスクーリングで必要だったので、中古のモバイルノートを買った。CPUは第10世代のi5で、PD充電対応、金額は20,000円。スペックのわりに安く買えたと思う。嬉しかった。届いて、さっそくウキウキしながら裏蓋を開けた。確かこの機種はメモリ増設できないけどSSD換装は簡単だったはず。裏蓋のネジを紛失しないように、ガムテープに張り付けながら慎重に開く。YouTuberの真似だ。あったあった。位置を確認して、一旦裏蓋を閉じて、SSDのクローンを作り、また開けて、あとは交換するだけ、とSSDを止めてあるネジを回そうとしたら、固い! え・・・なにこれ固い、え・・・
悲しい気持ちになりながら、マザーボードを割らないように力加減に気を付けていたら、ネジが舐めてしまった(※ネジの溝が潰れて空回りする状態)。もう駄目だと思った。諦めて128GBのまま使うしかない。あぁ、でも以前、なめたネジが外れる素晴らしいドライバーがあったな…と思い出し、今度はそれの精密機器用の『なめたネジはずし 精密用』を買った。1,200円くらいだった。駄目だった。力を入れるとマザーボードが割れそうになる。1,200円も無駄にしてしまった。悲しい。
もう駄目だ、もう駄目なんだ。悲しい。べそをかきながら「SSD ねじ なめた」でググったら、同じ悩みを持つ人が無数にいることが判明した。情報収集する中、知恵袋で「ネジザウルス」の存在を知り検索をかける。M2という精密機器用は2,000円近くするらしい。20,000円の中古パソコンに対して1,200円をカネドブにしたばかりだったので、2,000円のネジザウルスも失敗だったら立ち直れない。
あぁ・・・でもレビューめっちゃいいな。賭ける気持ちでポチった。
届いて、はやる気持ちを抑えながら垂直にネジを挟む。とても小さなネジだ。(これで取れたら苦労しねえよ)と心の中でぶつぶつ言いつつ、半信半疑でクルクル・・・ゆるっ・・・クルクル・・・取れた。すんなり取れた。あまりにもあっけなく解決して物足りなくなった。2,000円も出したのにしばらく出番はなさそうだ。かと言って売りたくない。
他にもいるであろう、SSDのネジが取れなくて困ってる人に片っ端から貸してあげたい衝動に駆られた。うちから10km圏内にも絶対いるはずだ。SSDのネジを潰して困ってる人。SSD換装を諦めた人。そういう人に「諦めなくていいんです!よかったらコレ使ってください!」と声を掛けたい気持ちになった。ネジザウルス貸したがりおばさんの爆誕だ。私は普段は達成感を獲得し難い種類の仕事をしている。メサイア・コンプレックスを発揮しないように自制している「役に立ちたい」という欲求を満たしたがっている自分に気付いた。社会資源の不足から適切な対応ができなかったときに抱く無力感を代理昇華できる可能性さえ感じた。誰かー、誰か、換装諦めた人はいませんか。コレすごくいいんですよー。誰かー。
JAFのおじさん
どうやら私は「壊れたものを直す」という作業に自分を投影し易いようだ。私は自分が治らないことに劣等感を持っている。「ジャンクPCを修理する系YouTuber」と同様に感動するのがJAFだ。
駆けつけてくれて、黙々と修理してくれる。動かないものを動くようにしてくれる。魔法使いみたいだ。作業が終われば、恩を着せることもせずに速やかに立ち去る姿に、なんてさわやかなんだろうと何度も感動した。免許取りたての頃は、JAFのおじさんに助けられるたびに恋をしそうになっていた。無論それは恋ではなく、私の一方的な解釈による一方的な感情移入に過ぎない衝動だったし、淡く過ぎ去る憧れを言葉や態度に表して相手を困らせることもしていない。
以前、友達に「JAFの人ってすごいよね」と話したら、「仕事だから当たり前でしょ、仕事なのにいちいち恩着せてきたら怖いわ。」と言われた。確かにその通りだけど、普段誰も助けに来てくれない場所でサバイブしてる私にとって、「困ってるときにすぐ助けに来てくれる人」というのは稀有な存在で、尚且つ見返りを求めてこない、恩を着せてこないというのは、ものすごい人格者のように映って眩しいのだ。
吊り橋効果はもちろんあるけど、親切そうにしたあとで必ず性的な見返りを求めてくるような男としか縁がなかった私には、JAFのおじさんがどうしようもなく清潔に映ってしまう。性搾取してこない、恩を着せてこないだけで素晴らしく見えてしまうって、一体普段の私はどれだけ酷い人とばかり接点を持っていたんだろう。もちろんこちらも彼らの人格は知らない。ジャンクPCを修理する系YouTuberも、JAFのおじさんも、個人的に知り合えば普通に風俗に行くような人かもしれない。
それでも私は「動かないものが動くようになる瞬間」にどこまでも弱い。私も動くようにしてほしい。私も治してほしい。パソコンや車の修理と違って、人間をトラウマから回復させるのは基本的には本人の力だ(社会の力もあるがこれは別の機会に譲る)。外科手術の名医選びみたいに「この人なら治してくれます!」みたいなものでもない。
だけど私は、誰かに助けてほしかった気持ちをいつまでも引き摺りながら生きている。