先日、軍拡や税についての政治を風刺した動画が友人から回ってきた。犬にたとえられた大臣が「戦争はしません。けれど武器は買います。めっちゃ買います。引くほど買います。」という風に始まる。次々に具体的な数字が出てきて分かりやすいなと考え、友人たちにシェアした。その中に2人ヴィーガンの友人がいて、「面白かったが犬をメタファーに使うのはいかがなものか」とコメントをくれた。
そこで初めて、私の中にその視点がまるで欠落していた事に気が付いた。私は障害者とカテゴライズされ、一段低い眼差しを向けられることにずっと傷ついてきた。特にチェルノブイリの後、”放射能で体が奇形になった赤ちゃんが産まれるのだ”というキャンペーンには、めちゃくちゃ嫌な気持ちになった。
今回この動画で使われているのは犬だが、もしこれが子供だったり、お年寄りだったり、あるいはなんらかの障害を持つ人だったりがメタファーとして使われていたら、私もすぐに気づいたと思う。つまり私は人間についての差別にはとても敏感だが、種差別についてはかなり鈍感なのだと自覚した。
私の両親はペットが苦手だった。私の家では犬猫は飼ったことがない。母は子供たちに、中でも体の弱かった私に、彼女の愛情のすべてを注ぎこんでくれていた。だから彼女にとってのペットは、色んな意味で余裕のある人が飼うものだったのだろう。
ところで彼女の料理には、肉も魚もほとんど出てこなかったから、父親は彼女を「できない女」だと馬鹿にし続けた。今私はベジタリアンで、ヴィーガン的な食べ方をしている。自分の中では健康や環境にやさしいと言うことでそれを選んでいる。ただ、母の料理を思い出すと、母もまた父親に怒鳴られることがなければベジタリアン料理であったかもしれないとも思うのだ。
母方の祖父は鶏や豚を飼っていたが、その飼い方は今の工場畜産とは全く違っていた。鶏は家の中の土間をねぐらとし、天気が良い日は庭に放されての数羽飼いだった。豚は、子豚を成長させて売るために育ててはいたが、近所中の残飯と畑や田んぼの雑草等が彼らの餌だった。鶏の卵はたまに食べてはいたが、豚は年間一頭だけを手作りの小屋で育てていて、肉にして食べた覚えはないと母が言っていた。
とにかく祖父は自分たちの生活を支えるという理由で豚を飼ってはいたが、その飼い方には生き物としての対等感があったと思う。そんな背景もあって私は自分の食生活がヴィーガンになってきたかもしれないとも思うのだ。
ただ今回書きたいのは、肉を食べることはいろんな観点からやめた方がいい、やめるべきだということではない。ヴィーガンの視点だけで、「肉を食べることは暴力だから、これは続けてはいけない」などと言いたい訳ではない。ただ正直いえば、肉を食べることを一人ひとりがよく考えて工場畜産でない肉をハレの日、お祝いの日に年に数回ぐらいにして欲しいとは思うが。
しかし、構造的に工場畜産が蔓延している。ほとんどの人が自分たちが食べている肉がどんなに生き物としての尊厳を踏み躙られているか知る由もない。その象徴としてハンバーガー等のファーストフードはジャンクフード、ゴミ食料とも呼ばている。その材料にされている動物たちの悲惨こそが、種差別であると思うのだ。
種差別について考えることは、日々の生活をよくよく見直すことにも繋がる。この連載のタイトルにもある、医療の暴力が人間以外の種に動物実験ということで徹底的に振るわれている。私は動物実験をされているウサギやマウス、そして犬や猿の動画を見て、化粧することや様々な薬を飲む事がすっかり嫌になった。
また、ペット産業のバックの凄まじさにも種差別を感じる。自分のペットがどんな扱いをされ、自分のところに来てくれたのかを徹底的に自覚しての暮らしなら分かる。私の友人には酷い虐待を受けているペットを見るに見かねて引き取っている人が多い。
私たち障害の重い人の対応とペットへの対応はよく似ているところもある。つまり、家族にとって暮らしが不都合になったら障害を持つ人は施設に追いやられる。ペットもまたペットホテルという名の隔離を強いられる。現代は種差別があまりに当たり前で常識の一翼を完全に担っている。
私は種差別も嫌なので、生き方暮らし方になるべくそれをしないようにしてきた。にも関わらず、冒頭に書いたように犬を使って人間世界の酷い政治を告発している動画からは、それに気付くことができなかった。つまり自分の内なる種差別を見ることができなかったのである。
もちろんこの動画は犬を侮辱するためのものではなく、今の政治の愚劣さを告発するものだ。しかしそれをするために、総理大臣を犬に例える必要は無かったろう。私は自分の生き方や暮らし方を少しづつでも、さらにあらゆる差別から自由なものにしていきたい。差別からの自由は暴力からの自由と全く同じ線上にあるものだから。