「母と娘」の問題は女性特有の問題です。ここにもジェンダーが隠れています。「母娘関係」に悩んでフェミ二ストカウンセリングを訪れるのは、圧倒的に「娘」の側です。「娘」が母のことで悩む一方、その対極にいる当事者の「母」が自らカウンセリングに来ることは多くありません。そこには双方の気持ちのすれ違い、言い分に大きなズレがあると言わざるを得ません。
Q:最近はいろいろな方が自分と母親のことを自伝的に書かれていますね。
A:「母娘本」が続々と出版されています。
こんなふうに「母娘問題」として脚光を浴びるようになったのは、ここ数年のことです。90年代半ば以降、「アダルトチルドレン」が社会問題として注目されはじめたことが発端といえるでしょう。クリントン元大統領が自らACだと告白したことで、クローズアップもされました。自分の生き辛さや人間関係の難しさが、親との関係や生育暦に問題があるのではないか、とうすうす感じていた人にとって、「私ってACかも・・・?」という自己認識につながって、模索を始めた人はかなりいると思われます。それからもう20年ほどになりますね。
Q:「母娘本」をいくつか紹介してください。
A:母娘本は、「娘の立場で」書かれているものといえます。ブームの火付け役になったのは、中山千夏さんや信田さよ子さんの本ではないでしょうか。どれも大変面白いので参考にしてください。
中山さんは、母親が亡くなったのを機に、自身と母との関係を見直そうとされたものです。本の帯には「率直に言う。生まれてこのかた“母に会いたい”と思ったことがない」。なぜ、母を見送ってからでしか書くことができなかったのか。母とともに過ごした彼女の長い歳月、娘から見た母の姿、娘の葛藤、心理が克明に再現されている書です。
『シズコさん』佐野洋子(2008)
佐野さんもまた、母との確執に長年悩み続けており、「母を好きだったことは一度もない」と言い切っています。母を嫌い続けてきた自分を許せるようになるまでの過程が描かれています。
『幸子さん~』も『シズコさん』も「お母さん」ではなく、名前で母を呼んでいるところが共通しています。母娘関係からの脱皮、「境界」をもつ意味ともとれます。
私自身は、「母」を名前で呼べるだろうか? そうしたいわけではないのはなぜだろうと考えています。
『母が重くてたまらない~墓守娘の嘆き』信田さよ子(2008)
「そんな結婚、許さない」「ママの介護をするのは当然。娘なんだから」「私が死んだら墓守は頼んだよ」…。そんな期待に押しつぶされそうになりながら、必死にいい娘を演じる女性たちを「墓守娘」というようです。
なぜ母は娘を縛るのか。なぜ娘はNOと言えないのか。「今、そこにある地獄」を「“戦慄を覚える”という表現はこういうときに使うのだなと再認識した」と書評した人もいます。当事者の証言を元に、膠着した関係から脱出するには、具体的な解決を見出すなど、カウンセラー信田さんの視点、分析と指南が満載のベストセラー。
『母がしんどい~母のこと、大嫌いでもいいですか?』田房永子(2012)
ラブピの「女印良品」コメンテーター田房さんの、コミカルな漫画がわかりやすい。実に具体的で、セリフ、表情つきで、臨場感、心理が手に取るように理解できます。
『私は私。母は母。~あなたを苦しめる母親から自由になる本』加藤伊都子(2012)
フェミニストカウンセラーで、長年「母娘グループ」を開催されている加藤さん。「母が一番嫌がること、あなたが罪悪感をもつことが母から自由になる道!」の一言が印象的です。母の呪縛から逃れるには、自身の罪悪感とのせめぎあいを乗り越えるしかないということですね。
Q:「母娘」のカウンセリングに来るのは、「娘」側が多いのはなぜでしょう?
「娘」が悩んでいることが「母」にはわからないということでしょうか?
A:いい質問ですね。例えば、暴力や虐待する加害者側が、悩んでカウンセリングを受けたりしないのと似ていますね。問題を起こしている人は、自分が悪いとは思っていないでしょう? 逆に、相手が悪い、とさえ信じています。
もっとやっかいなのは、「母」は「愛」という名のもとに、「子どものため」という大儀名分にしたがって「悪意のない支配・抑圧」を繰り返すわけです。される側も「あなたのため」と言われると、虐待などの暴力がない場合は特に、その正体がわかりにくいという困難があるのです。
Q:「母」がカウンセリングに来ることはあるのですか?
「娘」と「母」の違いはなんでしょうか?
A:もちろん、「母」が相談に訪れることもあります。母は母なりに辛い「女」の人生を歩んでいて、悪意があるわけではないのです。
フェミニストカウンセリングでは、そこにはジェンダーと「父親不在」の夫婦関係が大きくかかわっている背景を無視できません。「アダルトチルドレン・マザー」という悲しさを背負っているともいえるのです。そのことは次回に「母」側の言い分として書くことにしてもいいですね。
「娘」と「母」の決定的な違いをいえば、「娘」はなぜこのように生き辛いのかがよくわからないまま、他の問題を抱えて来所されるケースが多いといえるでしょう。ズバリ「母娘問題」というよりは、カウンセリングの中で、自分の親との関係や生育暦を振り返るうちに、支配や抑圧、不自由さ、おとな世界の身勝手さ、過保護や過干渉による息苦しさなど・・・自分に何が起こっていたのか、そのことが自分にとって、どういう影響があったか、徐々に気づいていかれます。「えっ、この苦しさの根源は“母”だったの? そうか、そうだったんだ・・・」ということが多いといえますね。
そこに気づくと「母と娘」関係のいびつさを焦点化し、「母」との境界、「よい娘」からの脱却、「母」の呪縛との対峙が始まります。これは母との対立や抗争ではなく、自立への旅立ちですね。母から見れば、自分を見捨てる反抗・反乱と見えるかもしれません。
その一方で、「母」がカウンセリングに訪れる時は、娘に対してはっきりとした不満や怒りをもっていて、それが主訴になっていることが多いと感じます。すでに「娘」の抵抗と反乱が起こって手に負えなくなっており、「私の育て方が間違っていたのか?」「何がいけなかったのか?」と原因探しをしたり、解決策を求めたりしがちです。
「よい子だったはずなのに、変わってしまった」「手のかからない子で、こんなことになるとは夢にも思っていなかった」など。「こんなに精一杯やってきたのに」「私だって大変だった」と自分の不幸を嘆くことはあっても、「娘」の苦しさにはなかなか思い至らない「母」・・・こういう他罰的な方へのカウンセリングは本当に苦労します。
Q:母娘関係は、どのように解決すればいいのでしょう?
A:どんなことにも万能はありませんが、少なくとも「境界をもつ」「お互いに敬意を払う」ことができれば歩み寄れることはあるはずです。母娘に限らず。
「母娘」は、同性であるがゆえの同一化や他者意識の欠如が起こりがちです。この心理的距離の近さが境界をあいまいにして、相対化しにくくなるのだと思います。特に「母」は「娘」におかまいなしに侵入しがちですからね。
「母」は「娘」がどう生きようが手放せるか? 娘の人生は娘のものだと思えるかです。
「娘」は自分の人生を生きる権利があります。「母」から逃げようが離れようが捨てようが、罪悪感を持つ必要はないのです。あなたに責任はありません。そうしなければ「母」は決してあなたを手放さないかもしれません。