セクハラ、DVの被害ってこれだけ?
疲れている…。冒頭は景気よく始めたいものだが、今月はダメだ。夏バテか。
このところ引きこもって、セクシュアルハラスメントやドメスティック・バイオレンス(DV)の裁判例を読み続けているからだろうか。
凄まじいハラスメントや暴力の被害者たちの経験をこれでもかこれでもかと読み込んで、打ちのめされる。その上、裁判で一定の事実が認定されても、「え?これだけ!?」と驚く少額の慰謝料がほとんど。殊更「軽率だ」「断固として拒否する態度を示したなら防げた」などと被害者の「落ち度」を指摘し、がくんと慰謝料額を下げてしまう高裁判決もある(仙台高裁平成13年3月29日判決)。えーと。性的接触は望まなくても尊敬はしている上司・指導教授etc.に迫られた際に、予想もしない展開に、女性は驚愕し動揺する。そんな状態プラス、従前「上」の「男性」を立ててきたことからしても、瞬時に「断固として明示的に拒否せよ!」というのは、過大な要求ではなかろうか。
費用も時間もかけて、おそらくは誹謗や中傷などの心無い二次被害も経験して、その上でたったこれだけの金額か(お金では換えられない被害といっても、されど金額は被害の重さの評価)…と、どれほど被害者はがっかりしたことだろう。その上、判決文中で「落ち度」まで指摘されるなんて…。
「女性運動」?「女性活動家」?
そういえば、セクハラ事件で、被害者に対し、某裁判官が「あなたは女性一般の権利向上の『運動』としてこの裁判をやっているのか、そうでないのか」と聞いたことを思い出す。「へ?」と一瞬目が点になった。訴状にもどの書面にも、「女性一般の権利を向上すべきである」なんて主張はみじんも展開していないにもかかわらず、である。思いがけない質問に意表をつかれつつ、「主張の通り、個人の損害の賠償を求めています」と回答したら、某裁判官は上機嫌になった…。あれは何だったのか…。セクハラ被害を主張すると、「裁判を女性の権利の向上の手段に使う女性の権利の運動」関係者か何かかも?それなら同情できないけど?というにおいがぷんぷんとした。本当は、セクハラ被害の背景に、根強い性差別があり、ハラッサーらが抱いている「劣った女性に性的な暴力をふるっても容認される」という間違った思い込みこそただしたい。しかし、人権保障の最後の砦たるべき裁判所で、「女性の権利向上とでも言う気、あんた?」という裁判官がいるわけである。「あなたのその認識はいったい何だっ」と事実認定をし損害額を評価する裁判官にいえないのが、判断される側の弱みである…。「女性の権利向上なんてこれっぽっちも思っていないおとなしい女性です、被害を受けたので、どうかご判断ください…」といった低姿勢を保つのが賢明なのか。請求すること自体、「運動家」臭がしたから、「ひょっとして」とつい確認したくなったのだろう。裁判官?!「運動家」かどうかのレッテル貼りはしないでいいですから、損害を認定してくださ~い!と胸中で叫んだ(当該事件の当事者に迷惑をかけないよう、私もぐっとこらえねばならないときはある)。
どんどん話がそれていくが(いつものこと)、東スポWeb8月11日14時31分配信http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140811-00000014-tospoweb-ent で、女優能年玲奈が、「日本では女の子の世界観を発揮できる場所が少ない。(略)テレビとか映画を見ても、(キャストは)男の人だらけで女の人は1人とか、男の人だらけ。(略)これからも女の子のパワーを発揮できる場所を増やしていきたい」と発言したことを取り上げて、「まるで女性活動家のような発言で周囲を驚かせた」との記事に脱力した。「まあそうだろうな~、頑張ってね」という程度の発言に驚くという周囲(ほんとに驚いたとして)に、そして、「まるで女性活動家のような発言」とのあからさまな揶揄に、驚く。なんて書くと、早速「女性活動家が目くじらたてた」となってしまうのか(笑)。
こういう無意味な脱力をしないで済むように、女のパワーを発揮できる場所を増やさないといけない。でも、増やそうとすると、ストレスもどんどん増えて来る。
数はパワー、でも、しかし…
前回も書いたことのおさらい。セクハラ等女性差別に寛容な労働環境では、男性こそ下駄を履いていて、女性の進出が阻まれている。だから、男性の履いた下駄を修正する仕組み=女性を増員するクオータが望まれる。
8月15日アップの栗林デパ子さんが取り上げた、女性閣僚増員計画を聴き閣僚の「男性枠」が少なくなることに慄く「自民党中堅議員」の本音や、「女は下、女のくせに、という頭から逃れられない」との三重県魚連会長の発言その他諸々読むと、め、めまいが…。疲れの原因は、夏バテでなくこの方々の発言のせいかも…。
いやバテてなんかいられない、そもそも?!とクオータ制の意義を高らかに語ろうとするも字数が尽きたので、三浦まり先生と衛藤幹子先生編著の『ジェンダー・クオータ 世界の女性議員はなぜ増えたのか』明石書店、2014年をお読みください(手抜きですみません…)。
と、橋本聖子元外務大臣は、高橋大輔選手に執拗にキスを求めていたとの記事と写真が週刊誌に報道され、閣僚候補と取りざたされてきたが黄信号とのニュースが届く。「ほれ見たことか!女性議員や女性閣僚候補が、男女平等の価値をしっかり身につけているわけでない。女性議員・女性閣僚が増えたところで何が変わる?」という声が聞こえてくる。確かに、ほかにも閣僚候補と報道される女性議員たちのリストを眺めると、「じょ、女性といわれても…?」と落胆しないではいられない。だが、そこで踏みとどまってはいけない。女性ももちろん多様なのだ。だからこそ、女性が少数でなく、一定割合以上いないと、女性の中の多様性も確保できない。
脱力しているヒマがあったら前進しないと!むやみに前向きでいこう!