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幸せな毒娘 Vol.12 被害者からサバイバーへと② 告白、そして遭遇

JayooByul2023.03.03

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記憶が戻ってから、自分は汚いと思う日々が何年も続きました。それは自分がされてしまった性犯罪そのものに対する感情かも知れませんが、韓国の社会からの「経験のある女=汚れた女」という洗脳から来た感情かも知れません。一つ確かなのは、それから私にとって性と性に対する欲求は汚いモノ、持ってはいけない感情という形に変わってしまい、それ以降の私の恋愛や人間関係に大きく悪影響を及ぼしたということです。

戻った記憶の中には小学一年生以降に経験した、男性の親戚からのセクハラ行為もあり、学校の男性の先生や周りの大人の男性からの数多くの行動は既にセクハラだった――もしくは性犯罪目的の行為だったことに気づき始めたのです。それで私は韓国が大嫌いになり、韓国から出ないと生きていけないような気がしました。そのため高校一年生になったころ、私は高校を中退し父に付き添い中国に留学することを決めました。

中国語が一切喋れなかった私が入った学校は、中国の延辺と言う地域のある高校付属の、韓国の生徒を中心とした語学学校でした。中国語をある程度身につければ他の科目も勉強できるようになり、望めば中国の高校生たちとも授業が受けられるシステムでした。語学学校だったため、クラスは中国語のレベルによって分けられ、年齢は小学生から高校生までとバラバラ。しかし残念ながら当時の中国留学は「アメリカに行くほどのお金はないけど、韓国では学校の生活が出来ない問題児」が多く行くイメージだったので(もちろん勉強だけが目的な人も大勢いました)、大体の生徒は勉強に興味がなく韓国人同士で群れることが多かったです。

父の家はそんなに遠くなかったのですが、私は勉強に集中するためにわざと寮暮らしを選びました。中国語の勉強でも頑張って成功すれば、私たち家族が幸せに暮らせると漠然とした希望を持ち、毎日勉強に没頭しました。漢字は大苦手で自分の名前も漢字で書けない私だったので、全く新しい言葉を学ぶために一日2時間も寝ずに勉強をしました。そうするとトラウマからも少しは離れられる気がしたのです。

しかし、それもそう長くは続きませんでした。一人で起きて夜中まで勉強を続けていると、暗くて静かな部屋でその日の記憶が繰り返され始めます。鉛筆を握っていない左手の不愉快な感覚も蘇ってきました。何度もこみあげてくる吐き気を我慢しながら漢字を書き続けていると、急に涙が出てきたりして自分の髪の毛を引っ張りながら叫び声を飲み込む日が徐々に増えました。

結局私は親に事実を伝えることにしました。そうでもしないと親に大事なことを隠しているという罪悪感に潰されてしまいそうだったからです。電話越しの母の声は戸惑っていましたが、とりあえず韓国にいる母には何も出来ることがなかったので、母から父にちゃんと伝えておくと話してくれました。

その日の遅い時間、父から電話が掛かってきました。勉強はいいから一応家に帰って、一緒に時間を過ごそうとの誘いでした。色々大変だけど、それでもやっぱり家族が居て良かったんだなと思いました。父は私に美味しいご飯を食べさせ、お散歩をしながら父の気持ちを伝えてきました。

「その男の所在がわかれば今にでもお父さんが殺してやりたい。そんな気持ちは山々だが、あなた自身はあまり重く受け取らなくていいんだ。性ってたいしたことない。夫婦の間でも互いの関係に満足できなければ、旦那に性を買わせる女だっているから」

慰めるための言葉だったのかも知れませんが、やっぱり性は汚いモノなんだという認識が強まりました。そして強姦されたわけでもないのに小さなことでここまで悩んでいる私が大げさなんだ、という新たな罪悪感が増えました。それから私は父に私の心のうつを伝えたことは一度もありません。

それからもう少し時間が経ち、私は救世主に出会えました。それは偶然聞いた日本のある声優さんの歌でした。その時の私は日本語が全く分からず歌の内容がわかるはずがありませんでしたが、不思議と――何か強くてあたたかなものが心の中に広がっていくのを感じたのです。それで韓国語で歌詞を調べてみると、まさに私が感じたことそのものが書いてありました。そこで私の最初で最後の「自分が心から望んで出来た夢」が見つかりました。日本に行って声優さんになりたい。私もいつかこの人みたいに、誰かに希望を届ける歌が歌えたら良いなぁと。そうやって私にもやっと「生きる理由」が出来たのです。少し補足しますと、私が大学で心理学専攻を選んだのも同じ理由でした。私みたいな女性のためになる仕事がしたい。本当の夢のために一応最善は尽くすけど、もし声優になれなかった時のプランBは心理学者になって被害女性のための仕事に就きたいと、そう思っていました。

話を戻します。その後、私はもう一つ心境に変化を与える人と知り合います。その子は(はっきりとは覚えていませんが)私と同じ年で、とても明るく、誰とでも仲良く出来るさばさばした性格の女の子でした。最初は大人しい感じでしたが、時間が経つにつれていろんな男の子たちともつるむようになっていました。そしてある日事件は起きました。どこで情報が漏れたのかは分かりませんが、その女の子が小学生男子を含めた他の男7人と宿泊施設で性関係を持ったという疑いで停学処分になったのです。韓国は性的にとても保守的で(当時はなおさら)結婚前に体の関係を持たない人も珍しくありませんでしたし、初体験の平均も大体大学の2、3年以降だったので、その噂は狭いコリアンコミュニティーにあっという間に広がりました。私もそれを聞き、かなりの衝撃を受けました。どうしても非行を好むような子には見えなかったので、余計ショックだったんだと思います。

父から聞いた話なのですが、その子は韓国のおじさんの間ですでに有名だったらしいです。たまに韓国のおじさんたちに声を掛け交通費や食費などを借り、あとからお金では返せないから「他のモノ」で返すと言ってくると。父にその話をしてきたおじさんはもちろん何もいらないと断ったが、元々そういう子なんだから、と話題になっているとのことでした。その話を聞いたとき私は、絶対他に理由があると思いました。だって、その子が私に見せてくれた笑顔は決して平気でそういうことが出来る人が見せる笑顔ではなかったからです。その子については何も知りませんでしたが、なぜかそれだけは強く信じていました。

そしてまた数日後、その理由がわかりました。その子は義理の父親から数年に渡る性的虐待に遭った被害者だったのです。それを聞いた私は胸が裂けるかのような苦しみと同時に大きな怒り、そしてそれとは矛盾して「あ、私一人じゃないんだ」という奇妙な安心感に囲まれました。その安心感は違う形の罪悪感としていまだに私の心に残っています。

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