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むちゃセンセーのフェミニズム<今さら>再入門 第3回  家族って男女平等?

牟田和恵2014.05.22

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大ヒット中の映画、『アナと雪の女王』見ましたか?ディズニーの相変わらずのお姫様ストーリーと思いきや、かなり新鮮。主人公の二人のお姫様(エルサ女王とアナ王女)は、自らの意思によって自力でものごとをなしとげていく。王子様も定番通り登場するが、国とお姫様を救うのは、王子ではなく、姫たち自身。お姫様といえば、不条理ないじめや不幸にひたすら耐え、王子様に救われるのを待っているのが常なことを思えば、「私は自由、ありのままでいい」とエルサが歌う姿はなかなかのもの。それに、普通は魔女や義母に割り当てられる、お姫様を騙し陥れる悪役を、この映画では王子がやってます。通例からの逆転ですが、権力が大好きで陥れたり争ったりをしてるのは通常、男なんだから、こっちのほうがむしろ納得です。
この映画は、ディズニーとしては初めての女性監督による作品ということですが、その効果は大。映画はたんなる娯楽、ファンタジーにしかすぎないけれども、これからの子どもたちが幼いころからこうした物語に接して育っていくならば、多少は世の中変わるかもですね。
この映画がお姫様物語としてもう一つ新鮮なのは、王子と姫の恋愛譚が中心ではなく、結ばれてハッピーエンドなんて陳腐な終わり方はしないところ。アナは王子や山男と恋に落ちるのだけれど、クライマックスで彼女たちを救うのは、男のキスではなくて、姉エルサと妹アナの互いを思いやる気持ち。こんなふうに、シスターフッドが異性愛より大事ってメッセージは、かなり画期的です。少女マンガ、小説、映画その他もろもろ、女性(女の子)向けの娯楽やエンタメが、ほとんどすべてと言っていいくらい、女の子/女性が男の子/男性に出会って恋に落ちて結ばれるのが最高の幸せ、というカルチャーにあって(さすがにこれに飽きて、ヤオイやボーイズラブものが流行ってますが、それもやっぱり一対一の性愛を描いてます)、私たちを幸せにしてくれる大切な愛は、それだけじゃない、もっとほかにもあるんだよ、ってメッセージは心に響きます。
実生活でも、結婚というと女性が主役のイベントというのが常識。結婚式でどんなドレスを着るか、新婚旅行はどこに出かけるか、新居のインテリアにどう凝るか。ウェディング情報はもっぱら女性向けです。他方、「結婚は人生の墓場」なんて言う言葉がもっぱら男性向けには使われてきました。結婚によって男には妻子を養う一生の責任が生じ、自由も男のロマンもなくなるという意味なんでしょう。

 

 

 


でも、実は結婚は、女にとってこそ落とし穴。家族というのは、もっとも男女の不平等が顕著なところなんですから。こう言うと、いやいや、DVの絶えないような不幸な結婚もあるけど、一般的に結婚が男女の不平等を生んでいるとは言えないと、すぐに反論が来そうです。昔の日本の家制度のような、女性は家に縛られ父親や夫の権力のもとにあった家父長制家族では男女不平等だったかもしれないが、今は、女性は自らの意思で選んだ男性と結婚し、夫婦が協力して家庭を築いていく。夫が稼ぎ妻が家事育児をしていて稼ぎは無いとしても、互いが納得して合意でやってるんだから、不平等とは言えない、と。

 

 

 

 

 


でもそうでしょうか?個々の夫/妻の意図にかかわらず、今でもほとんどの家庭で家事育児の過半が妻に担われている。そのおかげで女性は労働市場では二流、三流の存在で、男性並みの賃金を獲得することは難しく、その結果としてますます女性の側が家事労働を引き受けていく。逆に男性は、「妻」の存在のおかげで自分の子どもの世話や、自分自身の身の回りの世話さえ、気に掛ける必要もなく、労働市場で活躍します。妻が働いている場合、フルタイムであれパートタイムであれ、妻のほうが夫よりも労働時間が長いことが一般的ですが、その夫婦のうち、カネを多く稼いでいるのは、圧倒的に夫。理由は言うまでもなく、妻の労働には家事育児の無償労働が含まれているからですが、その無償労働とは、夫の世話や夫との間にできた子供の世話をしている労働であり、つまり過半は、夫に代わってやっていることを考えれば、夫婦間の経済力にそれほど格差があることは何とも不条理です(その分、夫は妻を養っているではないか、という反論があるでしょうが、因果関係はむしろ逆。妻/女性を二流以下の労働力に貶めている社会の構造が、男性に妻子を養えるような経済的優位を与えているのです)。

 


そのタダ働きは、離婚という事態に直面した時、不条理さをいっそうあらわにします。離婚の際、夫婦の共有財産は、保有している家や車、貯金などで計算され、分割されます。しかし、スーザン・オーキンによれば、平均的な夫婦が築くことのできる、とびぬけて重要な資産とは、結婚生活の間、妻が家事育児をもっぱら引受けてくれたおかげ夫が仕事に打ち込めたゆえの、つまりは夫婦がともに夫側に投資したおかげで形成された、夫の職業キャリア資源・人的資本です。しかしその夫のキャリアや人的資本は、離婚すれば、夫ひとりの手中に残されるばかりか、妻が自らへのキャリア投資を犠牲にしたことは不可視化されたままです。それが、いかに不正、不平等なことかとオーキンは鋭く指摘します。

 

 

 


オーキンは離婚の際について論じていますが、離婚に至らなくとも、ほとんどすべての結婚と家族は、この不正・不平等を内包しています。さらに、結婚しない、あるいは子どもをもたない「キャリアウーマン」人生を送っている女性も、労働市場では、このタイプの二人分の労働投資をしている男性と競争しているわけですから当然不利になりますし、それ以上に、労働市場で「まっとうな」労働力としてとどまるにはこんな不公正で非人間的なたたかいを続けねばならないなんて、腹立たしいくらいの不正義ではないでしょうか。
この意味で、現代の私たちの家族を、かつての家父長制から進歩して男女平等になったとみるのは、とんでもない錯覚。現代の一夫一婦制家族は、相変わらずの男性優位に貫かれながらもそうとは見えない、良くできた家父長制であり、それは、結婚しているといないとにかかわらず、すべての女性たちに影響していると言っても過言ではないのです。

 

 


でも、ここで言いたいのは、家族の不平等をこうむらないように、女性は子供を持たず、とにかくキャリアをがんばれ、なんて話ではありません。そんなことをしだしたら、人類社会はあっという間に滅亡だし、それ以前に、子育てや家事という、大変なこともあるけれども喜びを与えてくれる、人間が人間であるゆえんの営みを私たちは失いたくはない。
だから提案したいのは、家族をあきらめるのではなく、そんな不平等な家族のかたちに囚われるのはもうそろそろやめてもいいのでは、ということ。家族といえば、好きな男と出会って恋しセックスし結婚してその人の子供を産んでともに暮らしていく、そう決まっているかのようだけど、でもなんでそのかたちじゃないとダメなんですか? 男を好きになるのも結構、子どももほしい。でも、男と恋愛やセックスすることと、その男と家族を作って子どもを産み育てていくことがセットじゃなくってもOKなのでは?恋愛当初のラブラブの期間はともかく、長い人生、子どもを育てたり介護が必要になったり、そういう期間は、「愛する男と暮らす」だけじゃないほうが便利で楽なのでは?

 

 

 

 

 


考えてもみてください、夫婦という男女一対と子どもからなる家族って、女性にとって子育てをしていくには一番大変なかたちなんです。だって、大人二人だけで、家族を養う経済的負担と、家事育児の負担を背負わなくてはならないんですから、現代の社会経済的仕組みの中では、もっぱら夫が外で稼ぎ妻が家事育児を担う、というかたちが「合理的」になってしまう。でも、子どもがいるとしても、ともに協力し育てていける仲間たちがいるとすればそんなことにはならない。子育てに一人で専念する必要はないから、経済力を奪われて誰かに扶養してもらう必要もない。実際、どの文化・どんな時代であれ、人は、血縁や地縁の共同体の中で、親や傍系の親族、血縁関係のない働き手たちとともに、労働に携わり子育てをして、生活を営んできた。そこでは女性は、ひとりで家事育児の責任を担って脆弱な存在になる必要はなかったのです。

 

 

 


しかし近代以降、産業化・都市化が進展するなかで家族をめぐる大変動が起こり、人々はそうした共同体のくびきを逃れて、自由に自分の選んだ異性と結婚し家族を形成するようになりました。女性にとってそれは、家事育児の唯一の担い手、夫である男性に奉仕する存在として、自らを追い込んでいくことだったのですが、むしろ女性のほうが、ロマンチックな恋愛にあこがれ喜々として結婚生活に飛び込んでいくようになったのだから、その皮肉にタメ息が出ます。文学や芸術が恋愛を美しいもの、すばらしいものとして熱心に描くようになったのは近代以降ですが、それは女性を恋愛と結婚に飛び込ませ続ける壮大な仕掛けでした。その仕掛けが今もいたるところで機能し続けているのは、残念ながら誰の目にも明らかでしょう。この点からも、『アナと雪の女王』で、アナが恋愛はするんだけど(簡単に恋に落ちて有頂天に盛り上がります笑)、男との生活に飛び込んでハッピーエンドにはならないのは、大事なメッセージだと思います。いちど、王子と結婚しかけますが、そのときも、自分の城に引っ越してくるように提案してるのもなかなかです。

 

 

 

 


男女の恋愛や性的つながりが問題なわけではない。でも、女性が頼りにできるのは性愛の絆で結ばれた男や夫だけ、結婚や血のつながった親子でなければ人間関係はあてにならない---こんな、家族をめぐる「常識」が女性を脆弱にし、しかも、女性自身がその絆に熱心、という腹立たしいパラドックス。そうではない、別のかたちの人間関係、本当に男女平等が実現できる「家族」はどうやったら可能なのかについては、これから回をあらためて論じていきますが、アナとエルサが教えてくれる、女同士の絆の大切さ、かけがえのなさは、実は多くの女性がすでに知っているのでは?

 

 

 

 

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【本の紹介】
スーザン・M・オーキン『家族・ジェンダー・正義』岩波書店2013年
現代フェミニズム理論の古典と言われる本書ですが、1989年の原著刊行以来待ち望まれていた翻訳が出ました。ロールズ『正義論』(1971)以降、サンデル、ウォルツァーら多くの論者によって、公正な社会とはどのような社会か、どのような手続きを踏めば正義は実現できるのかと、正義に関しさまざまな議論が展開されてきましたが、家族という領域の正義については誰も問うては来ませんでした。愛の領域だから正義や平等の基準は通用させる必要は無いとか、あるいは単に無視していたりとか、その理由はいろいろですが。でもあきらかに、家族の中には、資源分配の不平等、労働分担の不平等があります。それを放置して、社会の正義が真に実現されるはずはない。オーキンは、これまでの正義の諸理論を批判するだけでなく、その理屈を突き詰めれば家族に正義を適用する以外にないでしょと、小気味よくかつ刺激的に、家族こそが正義の源であるべきであることを論じます。

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牟田和恵

牟田和恵(むた・かずえ)

本業は大阪大学人間科学研究科教員、専門は社会学・ジェンダー論です。
女性と女性の活動をつなぐ情報サイトWAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク http://wan.or.jp/)の運営にもかかわっています。おもな著書に、『部長、その恋愛は、セクハラです!』集英社新書、『ジェンダー家族を超えて』新曜社、『実践するフェミニズム』岩波書店など。
ゼミや議論の際に学生に質問やコメントをうながすとき、「無茶振り」をするらしく(自分ではそう思ってないんですけど、、、)むちゃセンセーとあだ名がつきました。

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