今どこにいますか? 自分の部屋ですか? バイト先ですか? よく知らない相手が寝てるベッドの中ですか?
今どんな気持ちですか? さみしい? 悔しい? さみしいとか悔しいと感じてると思われたくなくて、そんな風に同情されたくなくて、自分でも自分の心に麻酔を打って麻痺させているかもしれないですね。
私は成人式には出ていません。
小学校でも中学校でもいじめられていました。
地元の同級生を想像するとき、会いたい人より、会いたくない人の顔の方がずっと多く浮かんでしまいます。先生からもいじめられていたので、先生にも会いたくなかったです。
私の人生にはつらいことがありすぎて、「私っていつからつらかったんだっけ?」と振り返っても、振り返っても振り返っても楽しかった記憶が全然出てこない。
でも、楽しそうにしてました。そう振る舞うことがほんとにつらかった、「楽しそうにみせなくては」というプレッシャーが実はすごく負担になってたと、最近やっと気付きました。
小学校一年生のときに、上級生の男子から性暴力を受けました。
当時はそれが性暴力とも気付けないまま被害に遭い、何が起きてるかは理解できないまま、しかし強烈な恐怖感情だけが脳裏に焼き付けられ、私は下校途中の通学路で給食を全部吐きました。
私が吐いたゲロは「くさいくさい」とからかわれ、その日から、同級生の女子たちは私が吐いたゲロを大きく避けて歩くようになりました。
雨が降って、吐瀉物が完全に流された後も、同級生はずっと、「私のゲロ」があった場所を絶対に踏まないように大きく避ける、というルールを続けていました。
「私のゲロ」も「くさいにおい」も、もうそこにはないのに、何日も何ヶ月もそれを続けました。
私はそのたびに、自分が汚いものだと思われてるみたいで消えたくなりましたが、当時の私はいくら消えたいと願っても消える選択肢すら持ってなかったし、学校休みたいって親に言っていいなんてことも知らなかった(言ったところで却下されるのは明白だった) 。だから仕方なく、みんなに迎合して、その子たちと一緒に「くさいよねー!」って明るく楽しく笑いながら、自分のゲロがあった場所(そこにはもうゲロはなく、あるのはただのアスファルトでしたが)を、大きく避けながら歩いてたのです。
同級生と一緒に自分の吐いたゲロがあった場所を「くさいよねー!」と笑って避けてた頃の私にもし会えたら、今の私ならなんて声掛けたかなってずっと考えてるんですけど、ないんですよね、未だに掛ける言葉がみつからない。
あの日の自分を思い出すと、どんな言葉も救いにならない気がするし、何を言っても余計に傷付けてしまう。ただあのときの自分を、あの通学路の坂道で自分の吐いたゲロを笑いながら避けて歩いてる自分を、楽しそうにしてる自分を、思い出せば思い出すほど涙が止まらない。私は多分、あのとき泣いていれば、あのとき安心して泣けるような環境にいたら、今日まで苦しまずに済んだんだろうなって思います。
それ以降も、小学校中学校と、様々ないじめや性暴力に遭いました。
家の中には暴力ときょうだい差別があって、学校にもいじめと差別がありました。
先生は私がマイノリティだとみんなにバラすし、男子は集団でいじめてくるし。
当時の私は酷いあだ名をつけられていました。
私を馬鹿にするための替え歌もあったんです。
ああまた泣きたくなってきた。
いろいろなことがあって、高校の途中から食べたものを吐くようになりました。人に会うのが怖いという感覚が隠しようもないくらいに膨張して、それがバレるのが怖くて不登校になりました。私は自分が社交的な人間だと信じられていたかったのです。だからその姿が保てなくなったとき、もう人前には出られないと思った。
成人式があった当時の私は身体を売って生きるようになっていました。
いつ死んでもいいと思って生きてたから、自分の身体を使い捨ての紙コップくらいにしか扱えてなかったと思います。
自分はものすごく痛みに強い人間だと思ってた。(後にこれが「過剰適応=不快感情過剰制御」だったとわかりましたが、私はずっと「解離様式による適応」で生き延びていたのです。私は痛みに強いのではなく、痛みを遮断することで感情を抑制し続けていた。大河原美以著『子どもの感情コントロールと心理臨床』参照)
行く場所がなければ知らない人の前で平気で裸になってたし、それが平気な自分が強いのだと信じてた。
当たり前に大学に行って、おしゃれになって、彼氏ができて、失恋だとかで傷付いてる、そういう無事な世界を順調に生きてる同級生にまったく共感できないまま心の中で(そんなことで泣いてんの?)と内心見下して、顔では必死に心配してるふりをしたりしてた。
身体を売ってる自分の罪悪感や劣等感(もっとも、今ではこうした罪悪感や劣等感が不当に押し付けられたものだとわかるけど)の誤魔化し方がわからなくて、惨めな自分を直視できなくて、「私は普通の人にはできないことをしてる」と認知を歪め、「普通の人」に対する謎の優越感を錯覚したり、「これだけハードなことにも耐えられる自分」になけなしの優越性を見出そうとしたりしてた。
いま、今日、成人式に行かなかった自分を「別にたいしたことないし」って自分に言い聞かせてるあなたが、いま平気なその顔を、私は疑わないです。あなたが平気だというなら、あなたは確かに平気なんだと思う。だけど、いつかあなたが今日を思い出してわんわん泣ける日が来たら、そのときは好きなだけ泣いてほしいです。
私は今これを書いていても、涙がボロボロ出てきます。
何の心配もなく成人式に出られた人のことをなんとなく嫌いだと思ってるし、ケッという気持ちを未だに持ってます。別に成人式や晴れ着が羨ましいわけじゃないんです。そうじゃなくて、葛藤なくそこに出られる精神的にも社会的にも無事な姿が羨ましい。
成人式なんて、それ自体は素敵なものだともなんとも思わないけど、でもそれを口にすれば僻んでるとか妬んでるとか不名誉なこと思われそうだから黙ってる。
ただ、「あーあ」ってなる。
自分が諦めさせられたものを他のみんなが当たり前のように手にしてる姿をみるとき、眩しさに圧倒されて、「あーあ」と死にたくなるんです。もういいや。ばーか。そういう短絡的な語彙しかでてこない。
「新成人のみなさんへ」みたいな祝辞の類をみると、「あぁ私は想定されてない」って気持ちになります。
偉そうでくだらない祝辞なんて聴くのも読むのもだるいけど、「お前は仲間外れだからな」というメッセージに不必要に傷付けられないように踏ん張ってる自分が惨めだ。
「やっぱり行っとけばよかった」と思ったことは一度もないですけどね。
もし行ってたら、私は無理して笑って誰より明るく社交的に振る舞ってそのまま帰りに自殺してたかもって思います。若い頃は毎日死にたくて、死んでない自分に怒ってました。社会に怒っていいなんて知らなかったし。
私はあなたに励ましや慰めの言葉を掛けようなんて思いません。
こんなときに慰められたら死にたくなるよね。
親切にされたら気分が悪くてぶん殴ってしまうかもしれない。
泣いたら負けだと思って戦ってる自分の姿を悟られるのも嫌だよね。
あなたに、ああしてほしいこうしてほしい、そういうことは思わないです。あなたに酷いことをした人たちに対しては、今からでもあなたに謝ってほしいと思いますけど。
部屋で、バイト先の休憩室で、知らない人が隣に寝てるベッドの上で、シャワーでトイレで、あなたの意識がたった一人になれる時間に出てくる「あーあ」。
その「あーあ」だけは我慢せずに好きなだけ出してほしいんです。
いつか未来のあなたが、いまあなたがこぼした「あーあ」を受け止めて、一緒に泣いてくれる日が来るから。そういう日が必ず来るから。
最後に一言だけ、と〆るのは説教臭くて恥ずかしいですが…あなたは悪くないです。
こんなことはいちいち言うまでもないですが、あなたは悪くない。
だけどもしかしたら、今のあなたには、どんな根拠を出されてもこの言葉が信じられないかもしれません。
「あなたは悪くない」と言われたところで納得できない気持ちを持つのはおかしいことじゃないです。
自分のせいだと思い込まされてるときに、いきなり現れた人に「そうじゃない」とか言われてもピンとこないですからね。
だからすぐ受け取ってくれなくていいです。
私はこの言葉をここに置いておくので、何年か後にもし思い出したらもう一度手に取って検討してほしいです。
「あなたは悪くない」