◆Colaboに連帯します◆
本当はこの記事を書きたくない、だけど書くしかない状況になってしまったことを本当に残念に思う。悔しい気持ちで泣きながら書いてる。
今まで、私の記事を読まずにタイトルだけで内容を判断して憶測で曲解コメントを書く人が何人もいたが、今回の記事は何が何でも最後まで読んでほしい。摘まみ読みもしないでほしい。聞きこぼさずに読んでほしい。
「Colaboが助成金を不正受給してる」などというデマが出回り始めてもう3か月になる。
今回監査結果が出たというので、煙が吹いてパンク寸前の脳味噌で読み込んだ。
私は障害者だ。ディスレクシアで、資料の読み込みには健常者の何倍も時間が掛かる。それでもやった。
◆監査委員の資質を問う◆
今回、「不正」も「違法」も一切なかったものの、一部が「不当」とされた、とあったため内容を確認したところ、
(5)宿泊費や給食費等について、一人一回あたりの上限金額を設けるなど、委託料の使途について合理的な基準を設けること。また、宿泊についてはその人数や目的、泊数などを報告させること。
とある。ここを読んで、この監査業務に携わった都議会議員は一体Colaboの活動内容について、その性質をどこまで理解してるのか疑問になった。
Colaboはシェルター事業もやっているが、単に「住むところがない子に部屋を提供するだけの団体」ではなく、社会的に孤立した少女たちの剥奪感のケアや関係性の充足、主体性の回復に力を入れている。
「関係性の貧困」が少女たちの人生にどれだけ深刻な被害をもたらしてきたかについて熟知しているからこそだ。関係性の充足や剥奪感のケアといった精神面のサポートは、必要最低限の衣食住と同等、あるいはそれ以上に重要だ。
例えば、少女たちと旅行に行くのは「体験格差」の解消を目的とした役割も大きい。
一度も旅行に行ったことがない被虐待児や、家族旅行の旅先であってもいつ怒られるか警戒し、緊張してばかりいた機能不全家族育ちの少女たちにとって、何が必要なのかをよく理解してるからこそ実施される旅行だ。
ところが、旅行の写真がSNSにアップされれば「助成金で贅沢してる」といった類のバッシングが必ず起きる。戦時下か?
これは「女は必要最低限の衣食住さえあれば十分だ」といった価値観を持ってるからこそ起きるバッシングだろう。
「最低限の衣食住で十分だろ」という発想は、途上国に要らない古着を送って恩を着せるのと同じメンタリティだ。
旅行の一瞬を切り取って「贅沢」などと揶揄するアンチは、Colaboにつながる少女たちが今までどれだけ贅沢と縁遠い環境で生き延びてきたか知るべきだ。
生まれて初めての楽しい旅行がそんなに叩かれるなんて残酷すぎる。
Colaboはずっと、本来ならば10代の女の子が「当たり前」に得られたであろう経験、あたたかい人間関係、学習機会、社会的資源を、「支援」としてではなく、「当たり前」のものとしてそこにある状態を作れるように努力を重ねてきた。例えば、旅行に行く、誕生日のお祝いをする、そういったときに「これは支援の一環として予算がついてるから」と事務的に提供されるのと、あくまで自然に、日常の中にそういった趣向や演出が秘かに溶け込んだ状況で、そうとは気付かずに当たり前のものとして配備され包まれているのとでは、受け取る側の気持ちも喜びもまったく違うものになるだろう。「支援」として提供されれば、受け取る少女の剥奪感は永遠にケアされない。「普通」がない環境で育ち、「普通」に憧れを持つ少女たちの劣等感も逆撫でされてしまうだろう。
仁藤氏は、支援/被支援が内包する権力勾配にも常に気を遣ってきた。
支援/被支援は支配/被支配の関係性に発展しやすいが、仁藤氏はこうした「支援」が持つ危うさを誰よりも理解している。支配的な家庭環境で育ち自主性や主体性を奪われてきた少女たちが、トラウマティックな関係性を再演させないためにも、「一方的に施すだけの被支援者を弱体化させる支援者」といった古典的な支援者像を徹底的に否定し、対等な関係性を築ける工夫を重ねている。
虐待環境から自力で生き延びてきた子は支援拒否を起こしやすい。
安心できる環境で他者と信頼関係を結んだ経験がなければ当然のことだろう。
そういう子が持つ傷付きやすさ故の警戒心を熟知した仁藤氏が、氷の塊を少しずつ溶かすように重ねてきた努力や工夫のひとつひとつが、今回「不当」だとして内容を明らかにするように要求され、できれば舞台裏に隠しておきたかった話や、したくない種明かしをせざるを得ない状況になった。
これは、サンタクロースを信じてる子に種明かしをするよりずっと残酷なことだ。
少女たちを安心させるために重ねてきた工夫が一枚一枚剝がされて丸裸にされていくことについて心の底から悲しく思う。
今回、不当であるとして「合理的な基準」を設けるように勧告がなされたが、監査委員を務めている伊藤ゆう都議会議員は果たしてこうした性質をどこまで理解できているのだろうか。
「妥当」か「不当」かなんて、少女たちの切実さや、こうした背景を知らない人にどうやって判断がつくんだろう。
仁藤氏が少女たちと信頼関係を築くために積み重ねてきた努力を根こそぎ台無しにして来るやり方に断固抗議する。
仁藤氏はどれだけ憶測によるデマを流されても自己弁護をしない。
「これはこういう理由でやってます」「この予算の使途はこうです」と具体的な種明かしをすることで、少女たちを「なんだそういうことだったのか」とがっかりさせたくないからだろう。
偏見まみれの報道の中で、少女たちが「支援されるべき弱者」というネガティブな自己イメージを背負わされないように、彼女たちが持つ過去の惨めな気持ちが蘇らないように必死に「今まで通り」を保とうとしてるのだろう。
そうした矜持に「説明してください!」と繰り返すのはハラスメント以外の何者でもない。
◆援助希求を出せない子のために用意された環境を壊すな◆
以前、Colaboの若年女性支援者養成講座に参加したことがある。
そこで仁藤氏が、
「『相談聞きますよ!』って顔をせずに、暇そうにポケットに手つっこんで立ってることも大事。こっちが忙しそうにしてると、(いま話し掛けたら迷惑かな)って遠慮して話し掛けるのを諦めちゃう子がいるから。本当は話したいことがあるけどなかなか話せない、そういう子が話し掛けやすい雰囲気を作るために、あえてカップラーメン食べてたり、暇そうな感じにつっ立ってる、そういうのがすごく大事」
と説明していて、心の底から膝を打った。
虐待環境で育ち、自分の話をちゃんと聞いてもらった経験がない子との距離の縮め方に関して、本当にプロだと思った。これはDV被害者にも言えることだが、長く支配的な環境にいると極限まで非主張的になってしまい、自分の感情を後回しにすることが習慣化してしまうのだ。
事情を知らないアンチが「暇そうにカップラーメンをすする仁藤」をみれば「仁藤は仕事してない」と叩くだろうが、Colaboに集まる子がどういう事情を持つ子なのか理解すれば、仁藤氏の一挙手一投足の意図が見えてくるはずだ。
仁藤氏はさらに、
「Colaboは、2020年以降はコロナ渦で相談件数が増えたが、本来は"自分から助けを求められない子"と出会うためにアウトリーチ活動などを展開していた。自分から助けを求められる子は、本来は行政がカバーすべき。行政がやらないからColaboがやるしかないけど、本当は自分から助けてと言えない子の話を聞ける状態でいたい。だから本当はもっと、そういう子が話し掛けやすいような"暇そうな状態"でいたかった」
と嘆いていて、本当にそうだと思った。
福祉に捕捉されない子、自分から助けを求められない子、こういう子が言葉巧みなスカウトに取り込まれて搾取される前にColaboに繋がれるように社会は見守るべきだろう。
ところが仁藤氏は今、アンチにデマを流されて消火活動に追われることで「ポッケに手突っ込んで暇そうにつったってる」が難しい状況に追い込まれてる。
何千人ものアンチフェミが仁藤氏の欠点を探したくて探したくて探したくて血眼になって粘着する光景は異常だし、同じことを学校でやれば完全にいじめだ。仁藤氏が失敗しないか、なにかボロを出さないか、ワクワクしながら固唾を飲んで監視してるおじさんが何万人もいる。
こういう監視は言葉による脅迫がなくても精神的に追い詰める行為だし、Colaboに来る脅迫の中には「レイプしてやる」みたいなものもあるという。想像しただけで倒れそうになる。
アンチフェミによる集団監視も社会的な暴力として定義し対策を取るべきだと思う。
あんたらそのポテンシャルで国家権力監視しろよと言いたいが、そうではなく性搾取社会と戦う一人の女性を叩く構図に日本のミソジニー体質が集約されてる。
このようなハラスメントに対して、あたかも主張に正当性があるかのように吹聴しデマに加担する政治家にも絶望するし、まるでプロレス観戦を実況中継するかのような報じ方でPV数を稼ぐメディアにも絶望する。
こうやってデマが流通することで、「ヤバい団体」みたいなネガティブなイメージが先行して、本来繋がれたはずの少女たちが接続を阻まれる可能性について考えたことはないのだろうか。あるいは、接続を阻まれた少女たちが性産業に吸収されることを期待してColaboの活動を潰そうとしてるのだとしたら、それは最早フェミサイドにも相当する女性への暴力だろう。