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医療の暴力とジェンダーVol.25 整形外科の治療とは。私のされたリハビリと手術

安積遊歩2023.01.23

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 私は生まれて40日目から13歳まで整形外科の治療を受けた。なぜ40日目かというと脱臼検査で生まれて初めてのレントゲンをとられたのがそこだった。そして脱臼ではなかったけど、骨があまりにも薄いと言われた。そして「その薄い骨をなんとかするためには治療をしなければ。」と言われ男性ホルモンの注射が始まった。

 注射のことを思うとパブロフの犬の話を思い出す。この実験は犬を檻の中に入れて非常な痛み・電気ショックを与え続ける。すると、ある時期が来ると、どんなに抵抗しても逃げられないと思いこむ。遂には檻の扉が開いていても逃げず、立ち上がる気さえ起きないというものだ。最初のころは電気ショックの痛みに抗議して叫びまくるのだが、そのうちに諦めて叫ぶことすらしなくなるという。

 その話を聞いたときには、私はパブロフの犬と同じだなと思ったものだ。赤ん坊だったから諦めることなく泣き叫び続けたとは思う。しかし逃げることはできず、ただただ母親の愛情と抱擁によってのみ生き延びることができた。1日おきにやってくる地獄の瞬間は、その後、私と同じ体の特質を持つ娘を産んでからは整形外科医療に断固NOと言い続けるための原動力となった。

 骨折をして何が1番痛いかといったら動かされること、動かすことである。だから動かさないことが1番最善の治療なのだ。にもかかわらず、「骨が曲がってついてしまうのはよくない」とか「手術をしなければ治る保証がない」とか「骨の中にピンを入れて骨を補強するのが大事」とか様々なことを言われ続けた。それで私自身は13歳までに骨折約20回。それにプラスして手術を8回もされた。

 手術をされるということは小さな子にとっては非情な暴力を受けることだ。どんなに君のための手術なのだと言われても、身体は納得し難い。ちょっと指を擦りむいただけでも痛いのに、不安と恐れでいっぱいになっている私と母を前に医者たちはその手術がどんなに正しくて必要なものかを延々と語ったのだった。私の初めての手術は6歳の時のことである。私の頭ごなしに医者が母親にそれを説明している、その様子を実は私は全く覚えていない。

 しかし母親は少しでも私が辛さや痛みを表現すると私より先に涙目になり、ときには手に持ったハンカチがぐっしょりになってしまう人だった。だからその時も不安で彼女にきっちりと抱きつきながら聞いている私の頭に、母親の落涙が止まらなかったことだけは容易に想像できる。

 今思えば、私の家は手術をするための経済力がなかった。にもかかわらず、母親は自分の親兄弟からの助けを総動員して私に手術を受けさせたと思う。もし父親1人の経済力で周りからの協力がなければ、あの8回の手術はなかったかもしれない。私の肌で感じた父親からの思いは、ただただ母のために私が生きることを応援しなければと思っていただけのような気がする。

 父親は22歳から29歳くらいまで中国で天皇の軍隊で加害者となり、その後敗戦になってからはシベリアで4年半捕虜となって戦争の被害者となった。その彼の戦争での暴力による凄まじいトラウマは、子供たちを慈しむというよりは母親を支配し、アルコール漬けになりながらも、「まず生き延びよう」というところにあったと思う。彼は天皇制に激しい憎悪を感じていたと思うが、戦後それは象徴天皇制となって憲法に残ってしまった。そこに対する暗い憤りを内包しつつ、日々をとにかく生き延び続けた。酒やタバコや仕事などのアディクションを使ってのことである。

 手術の時には彼が付き添いに来る時もあった。手術前後3週間の日々に1回か2回だったと思うが父親が来た。彼の付き添いはまるで安心とは程遠いものだった。夜中に私が痛みで泣き始めると母親はギブスに覆われていない方の足をいつまでもマッサージしてくれた。しかし父親は痛いと言っている私の声を無視し、「俺は帰る」と言って自分のズボンをはきだしたのだった。痛みの中、「帰らないで!」と訴える私に舌打ちしながら部屋を出ていった父。不安と怯えが極限に達した頃、痛み止めを持った看護婦を連れて部屋に戻って来たのだった。

 自分の激しいトラウマゆえに私の痛みを全く理解できなかったのだろうと思うが、母親とはあまりに違った対応に父親にはその後も十分に甘えた記憶は無い。特に手術前後の付き添いだけは「父親では嫌だ」と断固拒否した。

 私にされた手術は当時でも稀な実験的なものだっただろう。湾曲した骨を何箇所か切ってピンを入れた。骨を切るということは骨折状態を作り出すことである。骨折は1箇所折れただけでも、激痛なのにそれを何箇所も切るのだからとんでもない痛さだった。その上、大腿骨の皮膚を十数センチにわたって切り裂く。そしてそれをさらに縫い1週間後には抜糸ということで糸を引き抜いた。

 喉を締め付けられるような臭い全身麻酔をかけられての様々な生体実験。そして究極なのは手術後のギブスによる身体拘束とそれを外すときの電動ノコギリだ。あの爆音のことを思い出すと、あれから50年以上が経った今でも体のそちこちに緊張が走る。戦時下でミサイルの真下で生きる子供たちに対する深い深い共感はこの記憶からのものだろう。

 ところでもし路上でこれらのことが6歳の子に行われたらそれはあまりにも重篤な犯罪となるだろう。しかしそれが医療となると、子供の訴えは一切意味を失い医療側だけが正当性であり正義となる。整形外科医療が私たちの声を十全に聴き、本当に必要なものを互いへの尊重と対話によって実現されることを心から願ってやまない。

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安積遊歩

安積遊歩(あさか・ゆうほ)

1956年2月福島市生まれ
20代から障害者運動の最前線にいて、1996年、旧優生保護法から母体保護法への改訂に尽力。同年、骨の脆い体の遺伝的特徴を持つ娘を出産。
2011年の原発爆発により、娘・友人とともにニュージーランドに避難。
2014年から札幌市在住。現在、子供・障害・女性への様々な暴力の廃絶に取り組んでいる。

この連載では、女性が優生思想をどれほど内面化しているかを明らかにし、そこから自由になることの可能性を追求していきたい。 男と女の間には深くて暗い川があるという歌があった。しかし実のところ、女と女の間にも障害のある無しに始まり年齢、容姿、経済、結婚している・していない、子供を持っている・持っていないなど、悲しい分断が凄まじい。 それを様々な観点から見ていき、そこにある深い溝に、少しでも橋をかけていきたいと思う。

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