こんにちは。黒田です。前回読んでいただいた方、ありがとうございます。初めて読んでいただく方、はじめまして。寒くなりましたね。最近急激に体力の衰えと重ね着の大切さを感じ、肌着二枚重ね・ウールのセーター・フリースのミドラー(この言葉は最近覚えました)・さらに中綿ジャケットを着てぶくぶくに着膨れて通勤しているこの頃です。
さて現在私は、小さな会社で事務員をしながら飲食店バイトをかけもちして生活していまして、けして安定しているとまでは言えませんが、とにかく暫定的にでも性を売り買いする業界から脱したといえるでしょう。普通の人からしたら、よかったね。というくらいの感じかもしれませんが、私にとっての世界は全く変わってしまいました。離れてみてわかることが本当にたくさんあります。もちろんいわゆる昼の仕事でもつらいことや理不尽なことはあるのですが、それは長年続けた心身の切り売りとは根本的に質の違うものだと感じます。
不安になることもあります。自分はちゃんと人の形をしているだろうか? 夜の世界で身につけた諦め感や暗いオーラがもれだしているんじゃないか? 無理がばれて同情されているんじゃないだろうか?
しかしともかく体を売らずに生きられるという圧倒的な安心感は奇跡のようです。余生に入った感すらあります。
いつも狭い待機室で身体を固くしていました。客につけないと意味がないのに、電話が鳴るたび店員から目を逸らし、他の子が指名されてくれと祈りました。ホテルやレンタルルームの扉を開ける瞬間、床に転がる自分の死体を想像しました。
お金を手に帰る時の解放感はものすごく、逃げるように客から離れ乾かす暇のなかった髪も、安いボディシャンプーや消毒液の匂いがする体も、地面から浮き上がるほど軽くなりました。しかし振り切ったはずの重さは翌朝また戻ってきます。毎日その繰り返しで疲れきっているのに少しも眠れず、過食して吐いたりお金を数えることでしか正気を保てず、お酒を飲みまくり気絶する休息しか知りませんでした。
世間にはこういう考えがあります。
「他人や社会は変わらない、自分を変えよう」
袋小路にはまっているのに気づいたとして、引き返すことも、別の道を探す体力も気力もないならどうすればいいのでしょうか。ここが自分の居場所だと腹を括り受け入れれば楽になるかもしれません。でも楽になれないかもしれません。その場所にゴミを捨てにくる人たちが後をたたないとしたら、強くなるか、壊れるしかないかもしれません。
善意や人権意識からセックスワーク論に賛同し、セックスワーカーの権利を守ろうと言う人たちのいったいどれだけが風俗店の実態を知っているのでしょうか。
先日フェミニズム関連のZOOMを聞いていたところ性産業の話題になり、ある一般参加者の方の発言に耳を疑いました。
「ソープランドって挿入があるんですか?」
他の参加者に当たり前だよとつっこまれ、「基本はマッサージで…裏で交渉したりはあると思ってたけど、皆してるんですか? それは昔の話だと思っていました」と恐縮されながらも心底驚いているようでした。
その方を責めるつもりは全くないのですが、私は衝撃を受けました。フェミニストを自認している女性でも、性産業のなかでなにが起きているのか知らない人がいるのか。コンドームをつけないで性交するいわゆるNS店が増えていることも、どんどん低価格になり過激化するサービスも知らないのか。
合法化国がそうなったように、資本主義社会でセックスワークが仕事として認められれば、安さや過剰なサービスを競うようになるでしょう。消費者はますます貪欲になります。というかすでにそうなっています。その「リアル」を知らないまま、「当事者にも尊厳があり同じ社会で生きている…」とある意味当たり前のことを言われただけで深く感じ入ってしまうナイーブな人たちを見ているとむなしいものがあります。
同じ社会で生きる云々と言うならば、「売ってるから買うんだろう、自分から股を開いたくせに被害者ぶりやがって」と笑う男達とも私たちは既にともに生きています。彼らの欲望を知らず、それを引き受け生活の糧にしている女達のことを想像せずにどうやって女の人権を語るのでしょうか。
セックスワークイズワークと主張している人たちの主張もさまざまです。
「性産業は将来的になくなるべきだが、現にいる従事者をどう守るか。社会保障や客への啓発、避妊具の着用や身分証の提示の義務化。やりたくない人はやらずに済むような福祉を」おおまかにこのような論調は人道上正しいと考え賛同している人も多いのではないでしょうか。
正直、安全に働くなど性産業をなくすこと以上に非現実的だと個人的には思いますが、福祉の必要性はもちろんですし発想としては理解できる部分もあります。
しかし承服できないのは、セックスワーク論の裏面とでもいいますか、いわゆるセックスワークを人間の「性のありかた」として見る立場です。
それはあくまでセックスの自由であるという主張です。女性が自ら性を売ることは管理された保守的で規範的なセックスに抗う挑戦であり攪乱であるとする考え方です。
長年現場を見てきた自分としてはあまりにも馬鹿馬鹿しいのですが、この「自由」を本気で信じている人達がフェミニズムを語っているのは繰り返しますがあまりにも馬鹿馬鹿しいと感じます。具体的な安全策より規範の撹乱が優先されるので妊娠や性病、PTSDなどのリスクは語られませんし、逆にそんな心配するのは保守的だとか、女性を弱者とする家父長的パターナリズムだと嘲笑されます。
フットインザドアとでもいうのでしょうか、従事者の安全や人権を考えていたらいつの間にか性の解放という名の無法で無秩序なセックス賛美に引き込まれている罠。あげくの果てに家父長制に抗う看板にされたりもしているのです。攪乱と暴力の間に誰が線をひくのでしょうか。エンパワメントの足元で口を塞がれ続けているのは誰でしょうか。
論理が空転しフェミニズムが暴力や搾取の正当化に使われているのをバックラッシュと言わずなんと言うのでしょうか。
大学教授やソーシャルグッド・インフルエンサーの語るセックスワーク観など眉に唾をつけて聞くくらいで丁度いいと思ってます。
当事者の声を聞け、という運動が出てきたことは素晴らしいと思っています。しかし私は逆に聞いてみたいのです。セックスワークはリアルワークだという主張に外野から賛同する人たちにたくさん聞きたいことがあります。
街に出て、周りの男性を見渡してみて下さい。その中で誰が相手でも拒否できません。自分の体を守りながら気分良く射精させて帰すことができますか? 貧困や障害を持つことでそれを生業にせざるをえないとしたらどう思いますか? それをやりたい人がいることが、一体何の答えになるのですか?
「買われた」女達に向けられる声を見て、何を思いますか? 居心地の悪さから「私はそこで自己実現した/それは私に必要だった」という当事者達を盾にしていませんか?
性産業の構造を批判するのはセックスワーカー差別であると言われていますが、持ち上げるにしろ、見下すにしろ、同情するにしろ、この当事者女性への切り離しこそが差別なんじゃないかと私は思います。
私は性売買の世界から戻ってくるまでに気力体力をかなり使ってしまいもうあまり余力のない人間ですから、全ての差別について勉強したり発信することはできないでしょう。私はこれからもただの女、私という一人の女がどうやって人間として生きられるのかを考え続けていきたいです。「唯女論」というタイトルはその思いでつけました。とはいえ、論といえども堅苦しくならず、独り言を皆さまにお届けするような感じで末長く連載できたらいいな〜と思っています。寒さ厳しい折ですが、皆さまもご自愛くださいませ。では良いお年を!