連日暑い日が続いていますね~ 九州では毎日のように、午後、急ににわか雨が降っています。まるで沖縄のスコールのようです。関東地方でも局地的な集中豪雨が被害をもたらしているようですが、その雨を「ゲリラ豪雨」と名付ける感覚は、どこから来るのでしょうか? 「ねじれ国会」といい、「ゲリラ豪雨」とい い、政治的な情報操作の一端を感じてしまいます。
さて、政治的と言えばオリンピック。連日長時間にわたり報道されています。「観たくなくても選択肢がほかにない」という状態です。因みにオリンピックなんて大して興味関心のない私は、レンタル・ビデオに走りがちです。
それにしてもこの時期、オリンピック報道がなかったら、ニュース報道の時間配分はどうなっていただろうか・・・と想像してしまいます。いま、政治関連のニュースは激減していますね。日本の政治はいまどうなっているのでしょうか。報道していないからと言って、全く動いていないなんてことはありえません。「水 泳の北島選手に国民栄誉賞を渡して、福田内閣支持率アップ?!」を狙っているだけとは到底思えませんが・・・
「政治とオリンピック」の話はおいといて、今回はオリンピックをジェンダーの視点で見てみようと思います。と言っても、たいしてオリンピック報道を見ていない私が言及できることは、ごく一部に偏っていると思いますので、私のコラムをヒントにして、オリンピックに詳しい皆さん方には更に詳しく分析していただ けると嬉しいなと思います。
その1.種目とルールについて
第1回のオリンピック・・アテネ大会は、「女子のメダリストは一人もいなかった」ことで知られています。だって、男子だけの大会でしたから。今でこそ「女子マラソン」は注目を集めていますが、オリンピック創生期は、女子にマラソンは生理的に無理だと考えられていたようです。女子マラソンがオリンピックの正 式種目になったのは1980年代のロサンゼルスオリンピック以降です。しかし、体質を分析すると、女性の持久力は男性のそれを上回ることが知られています。そもそも、オリンピック競技は男性の体質に有利なルールで行われている・・たとえば、マラソンも「42.195キロメートルをどれだけ早く走れるか」を競うのでは なく、「24時間でどのくらい長い距離走れるか」というルールで行えば、圧倒的に女子が勝つということです。
マラソンが長いこと女子種目になかったように、この他にも男女で平等に門戸が開かれていない種目はありますよね。たとえば、シンクロナイズドスイミング。映画「ウオーター・ボーイズ」はなかなか面白い映画でしたが、近い将来、男子のシンクロも競技種目になるといいですね。たとえば、男子新体操の「リボンや ボールやバトン」・・・たとえば女子の野球・・・ソフトボールは今回の北京大会が最後の種目になるとか。冬のオリンピックを見ていた時は、「スキーのジャンプ競技に女子が出てこないのはなんでだろ・・」と思っていましたが、そもそもジャンプに女子の種目はなかったみたいです。近々ジャンプの女子種目も認められるよう ですが。
その2.ユニフォームについて
ソフトボールで思い出しましたが、ジェンダーの視点でユニフォームにも注目してみるのも面白い。滑り込みするときもあるだろうに、女子のソフトボールのユニフォームは半ズボンですね。なぜでしょうか。
陸上の女子選手は、近年、まるで水着のビキニのようなスタイルになってますね。男子陸上の選手も?!・・んなわけないか。
バドミントンも「オグシオ」とかいう選手たちのユニフォームが「超ミニ」と騒がれていたことが記憶に新しい。
卓球女子も、さっきテレビ見てたら福原選手もミニスカートでした。対戦相手の中国選手は半ズボンでしたが。
総じて、女子選手は機能だけでなく「(男に)見られるためのユニフォーム」であることが、ユニフォームの条件?!といえるのではないか。男子選手のユニフォームは機能重視のみ。これは、別に科学的な根拠があって言っているのではなく、ほんの少しオリンピックを見ているだけの、私の個人的な見解ですが。
その3.オリンピック報道は戦争報道と似ている
冬のオリンピックのジャンプ競技で「日の丸飛行隊」というフレーズが出てきて不気味な印象を受けた私ですが、先日斎藤美奈子さんの著書を読んでいて、どうも、オリンピック報道は戦時中の報道と似ていると感じているのは私だけではないと確信しました。
斎藤美奈子さんの『あほらし屋の鐘が鳴る』(文春文庫)に「作家の小林信彦さんは、オリンピック報道の新聞の見出しは〈少し文字を入れかえれば、そのまま、戦争中でも使える〉と書いています(週刊文春98年2月26日号)」
斎藤さんは「そりゃ、考えすぎというものだ、と思う人」のために、「念のためにと思い、太平洋戦争当時の新聞記事を調べて」います。「(長野)オリンピックの速報と(太平洋戦争当時の新聞記事を)交互に読んでいたら、どっちがどっちか、私はだんだん区別がつかなくなってきました。」と述べ、オリンピック報 道の特徴を
(A)勝因を道徳に求める「勝因の分析より、みんなをホロリとさせる選手の美談を好みます」
(B)好都合な条件を強調する
(C)敵情を無視する
と、分析しています。
「敵を知らない。客観性がない。精神論で片付ける。こうしたメディアの報道姿勢は、大本営発表に根ざした戦時中の報道とじつはまったく同じです。(中略)その体質はいまでも同じ。ノルディック複合でメダルを逃した荻原兄弟のことは隅々まで知っていても、優勝したノルウェーチームがどんな訓練をしてきたかは 何も知らない。銅メダルをとった岡崎朋美選手の太もものサイズは知っていても、一位二位になったカナダの選手の勝因は知らない。それが私たちの国の現実です。」(初出「Pink」98年5月号」)
今回の北京オリンピック。日本のメダルの数は知っていても、諸外国のメダルの数を把握している日本人はどのくらいいるでしょうか。諸外国のメダリストの勝因はおろか、名前すらほとんど知らない・・・そんな「日本チャチャチャ」のオリンピック報道がもうしばらく続くでしょう。さて、またビデオでも借りに行こ うかな・・・。