先日、友だち複数人と職場の人間関係などについて話をしていたときに、誰かが「普通にわかるでしょ」と怒ってくる人の話を始めた。その場にいた誰もがもれなく「『普通はわかるでしょ』と注意されたことがある」という反応で、しかし、何が「普通」なのかは実のところハッキリしないらしかった。
私たちは、どちらかというと、自分がそう言われてつらかった感情を分け合うためではなく、むしろ、30代から40代へと差し掛かりつつある自分たちが、これからより頻繁に向き合わざるをえなくなる若い世代に対して、「普通にわかるでしょ」と怒るようになるんじゃないかという危機感のようなもののためにその話をしていた。
「でも、普通って何なのか聞いても教えてくれないんだよね」と一人が言って、頭の中で、「普通にわかるでしょ」と言われた上に「普通ってなんですか?」と返すシチュエーションを展開してみたが、「そんなの自分で考えなさい!」とさらに怒りを買うだけだろうと思われた。
話しているうちに、「普通」というのは、話し手が説明のコストを払いたくないとき、面倒くさいときに、相手を黙らせるときの言い方なのではないかという気がしてきた。「普通にわかるでしょ」がわからない自分がどれだけダメなのか、そのたびに自分を責めてきたけれど、実は「普通」が普遍的ではなく、そのときどきで別の意味を持つことには少しずつ気が付きつつあったのだ。
この会話をする数時間前、珍しくInstagramを開くと、昔よく会っていた女友だちがストーリーを投稿していた。そこには自分の結婚式の写真の上にテキストで、夫は家事に協力的で大変感謝しているけど、正しくないやり方で家事をするので、私がやり直したほうがいいのかなあというようなことが書いてあった。
これについても「夫本人に指摘すればいいのに」と不思議に思ったけれども、未婚ならではの見えていない点があるんじゃないかと思い、「普通」の議論に一通り花を咲かせ終わった友人たちに話してみると、この連載に何度も登場しているおなじみのMちゃん(既婚者)は「それは、まわりから怒ってほしいんじゃないかな」と言っていた。自分で直接夫に指摘したり言ったりするかわりに、まわりに「それはひどい」と言ってほしいんじゃないかと。
詳しい事情は知らないので本人たちが実際にどうかは知らないけど、たしかにその、まわりから怒ってほしいという圧は、これまでに私もさまざまな場面で感じたことがある。そして、当人が何かを言ってほしそうな言動をしたり不満を口にしたりしていて、あまりにひどいと思われるときは、私が根本的な原因である人(男性が多い)に「それはおかしいんじゃないか」「それはセクハラなんじゃないか」と代理で指摘したこともあった。そのような場合、何か言ってほしそうにしていたり、不満を口にしていた当人は、梯子はずしのように「私は気にしていないのに」と言い出すことが多い。
みんなで話をしているうちに、この「誰かに怒ってほしい」というのも「普通にわかるでしょ」とつながっているのだとわかってきた。怒っているのは私ではない、他の誰かだという論理であるからだ。こういう場合、発言主は保護された位置にいることを望んでいる。
「普通にわかるでしょ」の場合には、叱る相手に対し「一般的な感覚がわからないあなたが悪い」というふうに使われ、「誰かに怒ってほしい」の場合では、本来指摘を受けるべき人に対して「私自身はそう思ってはいないんだけど」という言い訳に使われる。
特に日本では、行為と人格を切り離すことが習慣としてないため(ってか、欧米だとそれができるというのは幻想だと思いますが)、誰かを注意したり、自分の不満を伝える際に、どうしても相手の人格を傷つける可能性があり、伝える側も疲弊する。そこでお互いの人格を守るために、第三者が用いられる。しかし、本当は(対等な人間関係であれば)「私が嫌だった」と伝えてもよいはずで、そう思った気持ちも尊重されるべきであるのに。
ご飯を食べること一つでも、自分が何を食べたいかよりも、食べログで評価が高いもの、コストパフォーマンスがよいものを優先させてしまうときに、私は、自分はつくづく資本主義的な価値観に染まってしまっていると感じる。占い師に「私ってどんな人間ですか?」と聞きながら、自分のことなんだから自分で考えろと思ったこともあった。私個人のことに関して、自分が何をしたいのか、どう感じているのか、何を食べたいのか、何が好きなのか、第三者や客観的な評価を介在させずに判断できない、自分の声を聞き取ることができていないのは、結構悲しいことだ。
このコロナ禍に、どうしてもと大規模音楽フェスに行くと、リナ・サワヤマが超ミニのスカートなのか腰巻きなのかよくわからないキメキメの衣装で登場し、冒頭、「ここはセーフゾーンです。Don’t be judgmental、ここでは他人について何か判断しようとしないで」というようなことを言った。それは終盤の同性婚合法化に関する直接的な発言よりも私にとっては大きな衝撃で、ずっとあの言葉のことを思い返している。
最近は特に、自分がどの選択肢を取るのかハッキリさせなければならない、正解を選ばなくちゃいけない、もっとセンスよく自分を見せなければいけない、見せるための写真を撮らなきゃいけない、何を読んでどう思ったのかを常にアピールしなきゃいけない……というような見えない圧をどんどん内面化し、他人に対してもついつい口出しをしたり、口を出さずとも何かネガティブな気持ちを抱くことも多かった。でも、自分の心の声をちゃんと聞き取ってそれを尊重することができれば、たぶん他人のことも尊重できる。ときには他人の尊厳を守るためにたたかう必要はあるけれども、架空の「普通」や「誰か」を安易に介在させずに、主語「私」で語り続けたい。
黒川アンネさんの「モテ実践録」の一部が収録された「失われたモテをもとめて」現在好評発売中!