三寒四温の日々ですが、いかがお過ごしですか? 暦の上ではもう春になったとは言え、九州でもまだまだ寒い日々が続いています。学校って寒いんですよね・・・。教室に暖房は一切ありません。職員室にはストーブがありますが。生徒たちも冬場の防寒対策に苦心しています。
先月ご紹介した『ジェンダー・フリー・トラブル』(木村涼子著:白澤社)の中から、今月は木村涼子さんの書かれた章、第4章教育における「ジェンダー」の視点の必要性 ~「ジェンダーフリー」が問題なのか~ について触れたいと思います。
木村さんによると、日本のおけるアンチ・フェミミズムの「バックラッシュ」の動きは、国際的にも注目されているそうです。「ジェンダー」の視点で社会のあらゆるものごとをチェックする、「ジェンダーの主流化」が国際社会の常識になろうとしている今日、日本の状況は全くもって恥ずかしい限りです。
先日、大分県の日田市長が「市職員の同一生計世帯(夫婦・親子とも市職員だった場合)の賃金を2割カットする」という前代未聞の案を出して、全国から抗議の声を受けたそうですが、本当に見識を疑う発想です。こんな発想をしない大人に育てるためにも、学校教育で「ジェンダーの視点」を養うことは重要です。私の勤めている学校で、先日、こんなことがありました。
私の勤務している学校の生徒の制服は、女子はスカート、男子はズボンが指定されており、それ以外の選択肢はありません。女子のスカート丈は膝上・・・それもかなり上。靴下はハイソックスではあるものの、寒いはずです。自転車通学の女子生徒の苦悩がしのばれます。2,3年前の生徒総会で「膝掛けの許可」が学校への要望としてあげられ、職員会議で審議の後、認められました。膝掛けをして授業を受けている生徒はたくさんいます。
男子はズボンの下にもう一枚私服のズボンをはいて寒さをしのいでいます。制服のズボンの裾から、下にはいているズボンの裾が見えていることもあります。
先日授業時に、ある男子生徒が体調が悪くて寒気がすると訴えていました。それをそばで聞いていた女子生徒が、「膝掛け貸そうか?」とその男子生徒に言ったのです。すると「えっ、男子が膝掛けしてもいいの?」と返しました。女子生徒は「膝掛けに男も女も関係ないんじゃないの」と言い、私もすかさず、「男子だって膝掛けするよ。隣のクラスは自分の膝掛け持ってきて掛けてる男子生徒が何人もいるよ」と付け加えました。「そうか・・・だったら借りようか・・・」と少々ためらいがちではあったものの、その男子生徒は膝掛けを借りて一時間の授業を受けたのです。
机間指導の際にその膝掛けをしていた男子生徒に「膝掛け、暖かい?」と聞くと、「うん、あったかい。助かったぁ」と喜んでいました。実際、隣のクラスの男子生徒で膝掛けをしている生徒は複数いました。「男は耐えてなんぼ」のようなノリではなく、寒いときには暖かい格好をするという基本。
「クール・ビズ」だの「ウォーム・ビズ」だの、お題目を唱えてみんなで一斉にしないと一人ではできない成人男性に比べて、生徒たちのしなやかさに感服します。
「女だから・男だから」「女のくせに・男のくせに」・・・そんな教育ではなく、一人ひとりを大切にする教育を行っていく「ジェンダー・フリー」教育。その視点を教員が持つことによって、生徒のものの見方・考え方も変わってきます。
「ジェンダー・フリー」教育への攻撃が続いている今日ですが、『ジェンダー・フリー・トラブル』の中で木村さんは次のように述べています。
「『ジェンダー・フリー』概念が誤解を招くようなあいまいさをもっていたのであれば、あるいは性差別を解消する概念として不十分・不適切なものであれば、これほどのバッシングを受けていないのではないか。むしろ『ジェンダー・フリー』という主張には、特性論・『らしさ』批判を、むきだしなまでに明確にしているラディカルな面があるからこそ、攻撃の対象となったとみるべきではないか」
「社会的文化的な性別を前提としたシステムのあり方、性別役割分業、その中での性差別を根本から問い直す潜在的な力をもっているからこそ、彼らはそれに対抗しなければならないという危機感をもっているのではないだろうか」
「『ジェンダー・フリー』教育・性教育バッシング現象は新たな地平を拓いた。それはフェミニズムにとって積極的な意味を持っている」