先天性の障害を持って生まれると、まず最初に出会う暴力は医療からだ。例えば、手の指が6本で生まれたとすると、まずそこに医者がいれば「どうしますか」と親は聞かれ、そこで医者は「6本目の指を切り落とすことは簡単だし、今の方がいいでしょう」という。親は「なるほど、赤ちゃんにとって痛みはどうなんだろう」と考える間もなく、同意してしまう。そして、生まれたばかりの赤ちゃんは自身に凄まじい暴力をひき受けることになる。
66年前、私が生まれた時もそうだった。私は大腿骨が軽く湾曲して生まれてきた。だから、生後40日目の脱臼検査でそれが分かると、治療という名の暴力が始まった。1日置きの男性ホルモンの投与である。
私と同じ体を持っている人の中でも男性ホルモンを注射されたのは、私の知る限り私だけだ。今では、それは治療ではなく、生体実験でしかなかったと医療界も認めるだろう。しかし当時は、医者たちは「何も治療もしないなら、3歳までも生きられない」とか、「6歳までは持たない」とか、母に言い続けた。
だから、母は私の命を助けたくて、彼らに従順にならざるを得なかった。私は6歳の時には何度かの骨折の後、大腿骨の手術をされた。手術ももちろん痛かったが、術後の注射の数も半端なかった。朝昼晩3本ずつ、その上点滴や、最初の日は母の血液も輸血された。それらの激しい痛みに泣き叫び、医療者の良心に訴えることに成功。1ヶ月くらいの入院生活の最後の頃には飲み薬だけになった。
巨大な暴力と戦うためには泣き喚き、暴力をしてくる人たちに真実を伝えることが肝要だと子どもながらに思い知った。つまり、泣き喚きながら、私は「このヤブ医者、部屋から出て行け」と絶叫した。
医者の中には、私のあまりの苦しみを全く理解することがなく、私に罵られての不快感を母にぶつける者もいた。「こんなにわがままに育てたら、大変な目にあうよ。ちゃんと言い聞かせて黙らせなさい」というように。母は私の痛みがよくわかっていたので、自分も泣いて謝っていた。私は母のその態度にさらに苛立ち、医者が出て行った後は、「お母ちゃんも一緒に文句を言って、医者に部屋に入ってくるなと言え」、そして「大人なんだから泣かないで私を守れ」と言い募った。それでも母は、私のそれらの言葉にただただ泣くばかり。説教というものを私は母からされた覚えがない。
私の娘は私と同じように、骨の脆い体を持って誕生した。私は自分の体で医療からの暴力と闘ってきたので、この子には「そうした無駄な戦いをしない」と心に誓って産んだ。
私たちの体で幸せに生きるためには、この生まれた時に受ける過酷な暴力をいかに排するかが重要だと私は骨身に沁みて感じていた。
だから、娘が保育器から出て退院しても整形外科に連れて行く気は全くなかった。私たちの体への診断名は、骨形成不全症と言われている。しかし、私にとっては、その診断名は治療という名の暴力を、大人しく受容するために付けられたとしか思えない。
私は、私の体を世界にただ一つの素敵な体だと思っている。つまり大多数の人と同じ体を持っていなければ幸せになることはできない、なってはいけないとする社会こそが間違っているのだ。
20歳前後で出会った障害者運動の中で私の体にふさわしい考えを獲得して、私は活動し続けてきた。2006年には、障害を持つ人は医療モデルではなく社会モデルなのだという障害者権利条約が国連で採択された。(残念ながら日本の批准は2014年まで遅れたが) 私の活動が始まってから実に30年が経っていた。
娘が保育器を出てから約一年後、私はその後の整形外科医療がどのように変化したかを見たくなった。それで、パートナーと娘を連れて、腕がいいと言われていた医者を探して尋ねてみた。しかしながら彼の言葉には、残念ながらさらに落胆させられた。彼は娘の足をみるなり、「こんな足は、ドイツの医者だったら臍の緒を切る前にこの足を手術するだろう。早くしないと間に合わないぞ」と言ったのだった。
私はまじまじと彼の顔を見て、その馬鹿さ加減に笑ってしまった。そして、「貴重なアドバイスをありがとうございます」と言ってすぐに引き上げた。この医者の言葉には3点、人間に対する傲慢と浅薄な愚劣さがあった。
まず1点目は、赤ちゃんの痛みは大人とは違っていても、激しいものであるはずだという理解や洞察の全く無い点。
それは幼子に対する徹底的な差別とも言える。私は私の体験から、痛みはどんな年齢であってもどんなに過酷なものか、平和な時間を完全に踏み躙るものであるかを知っている。
2点目は、手術の結果に対するさらなる差別がある。つまり、曲がった足を真っ直ぐにしなければならない、歩けないことは不幸せである、という障害者差別である。
私は、娘には生まれる前から乳母車を買わずに車椅子を作ろうと考えていた。なぜなら、曲がった足でも大いに結構、娘は娘の体で最高と思っていたから、絶対に痛い手術はしないと決めていた。小さな車椅子に乗って私と2人、パートナーと介助の人を連れて世界を旅しようとさえ考え、ワクワクしていた。私の中では、「歩けないこと=不幸」では全くなかった。車椅子を活用させないこの社会の在り方こそが私たちを不幸にするのだ。
そして3点目は、親への差別である。医療や教育の専門家は、親こそがその子にとって一番の専門家であるということを認めない。医者も教育者も、その子の日々の暮らしをほとんど知らないところで子どもを見る。その親に対するリスペクトのなさ、尊重心の欠如は、わたしからすれば天文学的だとさえ思える。専門家と呼ばれる人々は、親のサポーターに徹するべきという自分の立場を自覚していない。それどころか、私を取り巻いた医者を初めとする専門家たちは、子どもの痛みを無視し、曲がっていても何の問題もない足を手術しまくり、さらには短命であると言って母を脅かした。
母の愛情はまさに天よりも高く海よりも深いものだった。にも関わらず、私は10代までの日々、母を専門家の言葉に煽られて無学で愚かな人だと決めつけていた。そして時には、わたしにかけられた暴力を止めずにいたと考え憎みさえした。
父親は戦後の高度経済成長の真っ只中の企業戦士だった。家族に対してお金を稼ぐ以外の存在価値が無いと、社会も彼自身も思い込んでいた。だから、私を愛しながらも私と母の苦境を傍観し続けた。
専門家の一言一言は、時にとんでもない社会を創り出す。私は彼らに繰り返し伝えていきたい。あなたたちは当事者のリーダーシップをサポートすることが仕事であって、当事者の人生をコントロールする仕事であってはならないのだということを。
私たちは自分の人生に対して唯一無二のリーダーシップを持っている。そのリーダーシップの豊かさと賢さを尊重し、信頼し、ときに涙しながら支え、一人一人の人生がかけがえのないものであることを伝え続けること。それこそが専門家の仕事であるとわたしは信じている。