医療からの自立はどのように実現されるのか。私たちの社会は、私たちの体を容易に医療に預ける。お産は病気ではないと言いながら、妊娠初期の頃から、全ての妊婦に出生前検査が勧められることとなった。以前は35歳以上の高齢の女性の希望によってのみ検査が行われたのだが、今年の春からは年齢制限がなくなった。
前から年齢制限がきちんとあったわけではないが、産婦人科に妊娠を告げても出生前診断を35歳以下だと積極的に勧められる事はなかった。しかし放射能や農薬などの環境汚染・食品汚染に向き合うことをしない日本の政策。その向き合わなさを個人の問題にすり替え、優生思想を使って女性たちを脅かす。脅かされる側の人々の意識にはすでに優生思想が根を張っている。
東日本大震災のあと、原発が爆発し放射能がばら撒かれた。その数年後、福島の若い女性たちが「私たちは子どもを産めないのでしょうか。産めば、障害をもった子なのでしょうか。結婚も出産も不安でしかなくなりました。」というような声をあげていた。
また同時期、放射能の害を軽減するサプリメントのコマーシャルがSNSに随分流れた。チェルノブイリ事故後に産まれた、身体が他の子と違う子たちの写真を使ってのコマーシャルだった。放射能は確かに怖い。原発も核もあってはならない。しかし、それと同時に今生きている、生きようとしている、身体が違った人や胎児を、恐怖と不幸のターゲットにしてくる優生思想。その凶暴さ、残酷さに私は傷つき続けてきた。
「出生前診断、出生前検査は誰でもできますよ。障害を持つ子どもを産めば大変なことになりますよ」と医療と国は前々から言ってきた。そこに、この年齢制限の撤廃である。つまり、優生思想をさらに強化するための方策として若い妊産婦にも勧められ始めたのだ。
社会は優生思想に満ち満ちている。そんななかで、出生前検査に年齢制限を取っ払えば、障害を持つ子の誕生はますます歓迎されてないという意識が広がる。それを裏打ちするかのように、出生前検査をして、胎児が障害を持つ子であると宣告された人の、実に99%の人が中絶を選んでいるという数字もある。
先日、イギリスで助産師をやっている日本人の方の話を聞いた。イギリスでも出生前検査は、希望さえすれば妊婦誰にでも行われるとのこと。しかし、助産師の社会的立ち方が、イギリスと日本ではずいぶん違うらしい。日本では助産師が医師から独立した存在とは言い難い。出産の場面で、あくまでも医師がリーダーシップを取っている。
しかし、イギリスでは助産師が医師と対等な力と立場を持って妊婦と向き合うという。そして丁寧に出生前検査の説明を行うと言う。「これはあくまでも受けなければならない検査ではありません。受けることで葛藤がより深まることもあるので、受けないという選択もあるのですよ」と丁寧に妊婦に説明するというのだ。
そして昨今では、出生前検査で加害の側に立たされる女性のメンタルの問題が浮上してきた。中絶した後に、罪悪感や無力感で、家族や社会との関係性に甚大な支障をきたしているというのだ。つまり、障害児を産まないで楽な人生を選択するつもりだった目論見が見事に外れたということだ。そして結局はより葛藤は深まり、医療費は高騰するばかり。
この選別的中絶という言い方はいつ頃から出てきた言葉なのだろうか。私にはこの言葉の欺瞞性が切実に腹立たしく辛い。障害のあるなしを選別するという理由は、ただただ「障害は恐怖であり、不幸である」という決めつけを拡大・増長するものでしかない。
母親の子宮の中で心臓を懸命に動かして生きようとしている命に対して、なんという冒涜、差別。強大な優生思想そのものだ。選択的・選別的中絶というのは私の言葉にすれば、全くの冤罪の中、死刑にされる胎児という表現になる。
しかしこの議論が混乱を極めるのが、そこにまず具体的に追い詰められるのが生身の女性、1人でしかないから。その子を産めば社会的には母親とも呼ばれる人なので、フェミニズムは彼女を助けようと中絶の権利を擁護し続けてきた。
私も出生前検査によらない中絶であれば、百歩譲って女性の自己決定権と言っていいだろうと思っている。今の社会は子育てをするためには、ほとんどの場面で差別的でその責任が女性、母親に押し付けられているから。
子どもは社会の宝であるにもかかわらず、その社会が向かってきた方向性は経済市場主義である。経済のためなら平和も命もかなぐり捨てるという有り様。ケアしあって、共に生きようという意志は、そこかしこで木端微塵になっている。私にとっては、出生前診断の年齢制限の撤廃も、その謀略に加担しているものでしかない。