新学期が始まった。毎年、年度初めには、授業担当者等が配慮すべき事項を確認する職員研修を実施している学校が多い。本校も先日実施した。
難聴の生徒がいれば、聞き取りにくいほうの耳の側に立って説明するのではなく、聞こえの良い側に立って説明する。聞こえているか、生徒の様子を注視する。音声情報だけでなく、視覚情報もあわせて用いる。
色覚に関する指導では、板書の留意点として、原則として白と黄色のチョークを使用し、文字だけでなく、線や囲みなどを用いて工夫する。PowerPointを使用する際は、背景の色に対して文字の色が際立つような色使いをする。グラフを見やすい太さの線で、折れ線グラフが折れているところが目立つよう、▲や◾️をつける。採点・添削の辺は、細いボールペンを読みづらいので使わずに、太い朱色のペンを用いる。
学習障害があれば、教室の掲示物にも配慮が欠かせない。教室の前方の掲示物をできるだけ排除して、気が散るのを防ぐ。黒板の左端には、毎時間の「授業の目標」と、見通しを立てられるように「授業の流れ」を記入する。
指示が学習障害のある生徒に伝わっているかを確認する必要もある。全体に説明した後、学習障害のある生徒に対しては、個別に確認する。場合によっては、紙に書いたメモを渡すこともある。
文字の大きさやフォントにも配慮が必要だ。明朝体ではなく、ゴシック体のほうが見やすいようだ。「丸ゴチック」も良さそうだが、最近では、ユニバーサルデザインのフォント(UDフォント)を見かけるようになった。
個人的には「UDデジタル教科書体」が読みやすくて好きでよく使っている。しかし、「Word」で文書を作成しようと「Word」を開くと、必ずフォントが「游明朝体」になっているのが嫌だった。毎回毎回「UDデジタル教科書体」に設定し直すのが面倒だと思っていた。「UDデジタル教科書体」に設定し忘れて、印刷した後に「游明朝体」で文書を作成してしまっていたことに気づくこともあった。
今回の職員研修を主催するにあたり、「Wordを開けば、常にUDデジタル教科書体のフォントが設定されている状態」とならないか、調べてみた。すると、それほど手間もかからずに、「Wordを開けば常にUDデジタル教科書体」にできることがわかった。
ご存じの方も多いかもしれないが、参照までに、設定の仕方を説明すると……
1 「Word」のホームから「フォント」の右下にある「斜めの→」をクリックする。
2 「日本語用のフォント」の▼をクリックして選択肢の中から「UDデジタル教科書体」を選ぶ。UDデジタル教科書体は数種類あるので、読みやすいと判断されるものを選んで設定する。
3 フォントの大きさも10.5ポイントより12ポイントのほうが、学習障害に対する配慮としては有効なことが多いので、「サイズ」の中から「12」を選ぶ。
4 左下にある「既定値に設定」をクリック
5 「Normal.dotm テンプレートをした全ての文書」をクリック
たったこれだけのことで、「Word開けばUDデジタル教科書体」が完成。よろしければ、お試しあれ。ただし、この設定は「Word 2016」のもので、最新版は少し違うかもしれない。
これだけさまざまに配慮しながら授業を進めていくのだが、今年度から新学習指導要領の導入に伴って、「観点別評価」というものが入ってきて、授業中にさらに気を配らなければならなくなった。小中学校ではすでに導入済みのことだが、高校では今年度から本格実施となる。
この「観点別評価」、いったいどのようなものなのかというと、「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「主体的に学習に取り組む態度」の3つの観点で、毎時間の授業を通じて生徒全員を評価をしていくというものだ。
しかし、「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「意欲」って、そう簡単には割り切れるものだろうか。たとえば、「同音異義語の使い分けができる」のは、「知識・技能」を持っているからか、「思考力・判断力・表現力」があるからか。
「理路整然とした小論文が書ける」のは、「思考力・判断力・表現力」があるからか、はたまた「主体的に学習に取り組む態度」があるからか、そこには、「知識・技能」は関わらないのか。
「知識・技能」「思考力・表現力・判断力」「主体的に学習に取り組む態度」は、そう簡単に割り切れないんじゃないの〜?と思っているが、そこを無理やり割り切って、「知識・技能」が「十分ある」だの、「思考力・判断力・表現力」が「おおむね十分ある」だの、「不十分」だの、毎時間のように授業で評価しなければならないというのだから、たまったもんじゃない。
また、観点別評価にもしばりがあって、たとえば、授業の最初に「今日は、○○について、『知識・技能』を評価します」と評価の観点を説明したら、その授業では「知識・技能」以外の観点で評価してはいけないことになっているらしい。
授業の中で、思わぬヒラメキや発見など、イレギュラーな素晴らしい考えや発想などが生徒から出されても、その日の授業の評価の観点とは違えば、評価してはいけない。
こんな授業、教員もたまったもんじゃないが、評価される生徒はもっと、たまったもんじゃないのではないか。授業で事細かく評価をしていくから、中間考査や期末考査の評価のウェイトは、これまでより低くなる。
そして、この「主体的に学習に取り組む態度」にしても、学習意欲が湧いてくるような環境に身を置いているのか、そうではない過酷な環境での生活を余儀なくされている生徒がいるのではないか……といったことは、入り込む余地はない。
生徒の力を十分に伸長させるべく創意工夫しながら授業をすることは大事で、そこには生活を背負って学校に来る生徒への配慮も必要だ。しかし、「今日の授業は『知識・技能』を評価するから『主体的に学習に取り組む態度』は評価しない」などと、杓しゃくし定規「評価のための授業」をすることに、どれほどの意味があるのか。
木を見て森を見ず。観点ばかり見て生徒を見ていない、そんな授業が全国で始まっている。