数年前、仕事で本を売りに行ったことをきっかけに、たまに、日本最大のフェティシズムイベント「デパートメントH」に行っている。これは、毎月第一土曜日の午後12時(つまり日曜日の0時)から鶯谷で開かれている大規模なパーティーのようなもので、現在はコロナ禍でフロアなどを縮小しているものの、基本的にはステージで様々なパフォーマンスが行われ、その他に、会場のあちこちにあるブースで、緊縛やラバー、窒息やメイクなどを楽しめたり情報交換ができるようになっている(初めて行った時は、会場の片隅で、朝までひたすらプラモデルを作り続けるというコーナーがあり、私はそこにいる人たちが一瞬で好きになった)。
きちんと「正装」した人たちには入場料の割引もあり、中には、30センチもあるかと思う高いブーツを履いた人や、かたや女性用ショーツだけを身につけた男性など、日常生活とは切り離された思い思いの方法で着飾る人もいる。かと思えば、いわゆる普通の服装の人もいて、そんな人こそ実は超ディープなフェティシズムを語ってくれたりもする。この場所があるから生きていけるという人も多いのだと思う。思ったよりもずっと安全で、とても大好きな空間だ。
数ヶ月前、友達と久々にデパートメントH(通称: デパチ)に行くと、外国出身の人が日本語で話しかけてくれた。「あなたたちのフェチは何なの?」。私たちがハッキリと答えられないでいると、彼は自分の「ニューハーフの人が一番好きなんだ」というフェチを語ってくれた。「でも、ここで会社の人に会ったらどうしようって、いつも考えてしまう」。話を聞くのは面白かったけれど、じゃあ自分にとってのフェチは何なのか、考え始めるとモヤモヤ霧がかかってしまって自分でもわからない。そこで私は会場内のSM体験ブースに行って、女王様に相談してみることにした。
SM体験ブースでは、男性たちがろうそくを垂らされ、鞭で打たれながら悲鳴をあげている。女王様に「そんなに痛いものなんですか?」と聞くと、「アイツらが騒いでるだけだよ。そんなに痛くない」と教えてくれた。以前、SMバーに出入りしている友達から、SMは一方的な攻撃や加害・被害ではなく、お互いの信頼関係に基づくものだと教えてもらった(そうじゃない人もいるだろうけど)。SのほうはMの様子を見ながら縛ったり吊ったりするらしく、MのほうでもここまではOK・ここからはNGというのをはっきり表明するらしい。デパチで出会った女王様も最初から私に高圧的な態度を示すのではなく、まずは私がどうしたいのかをじっくり聞いてくれて、その上で方向性を提案してくれた。「私、自分のフェチがわからなくて、とりあえず試してみたいんです」と言うと、じゃあとりあえず腕にろうそくを垂らしてから、お尻をムチで叩いてみようと言われる。机を挟んで向かい合って座り、まずは一滴、赤いろうそくを垂らす。「痛い?」。熱いけど、痛くはない。でも私は普段から痛みや感激などを含めて自分の感覚が鈍く、なかなかそれを身体に突き抜けるように感じることができないので、溶けたロウの熱さは恐怖を感じるほどじゃなくても、普段では飛び越えられない境界線をわずかに越えるような気がした。どんどん腕にロウが垂らされるにつれ「ああ、こういうことなんですね」と言うと、その様子を見ていた友人はなんだその反応はと思ったようである。しかし私は、今までに体験したことのない、言語では処理できない感覚に、感動すらしていた。その後は女王様に床に四つん這いになるように言われ、ムチでお尻を叩かれる。その痛みも、痛くて痛くてもう辛くてやめてほしい嫌だ涙が出るというものではなく、けれどもこれも、普段の鈍い感覚では飛び越えられない境界線をわずかに越えている気がする。数分の体験が終わり、私はやたらとスッキリしていた。
この連載が始まって少しした頃に、彼氏(だったのかよくわからない人)がいた時期があったのだけれど、その後2年ほど、意中の人と泊まりに行っても何もなく(GoToの回参照)、私は「もう一生誰ともセックスしないんだ」と思っていた。というか、今までセックスしたのもすべて幻覚だったかもしれないとさえ思った。どんな感じだったのか、まるで思い出せない。特にコロナ禍になってからは体重が増して自分でも顔が好きになれなかったので、なおさら今後は何もないと思えてしかたなかった。
ところが最近、面と向かって私と寝たいとサラッと言った人がいたので、その人と関係性を続けるかどうかなどは全く考えもせずに、とりあえず一緒に寝てみることにした。向こうも私という人間性にそれほど関心があるわけではないし(その証拠に私の個人的なことは全く聞いてこない)、私からも「この人がいない世界なら死んだほうがマシだ!」というような熱狂的な好意もなく、ただ単に「この人は嫌じゃない」という感触だけがあった(私はあらかじめ、自分はHPV陽性なので絶対に気をつけたいと伝えた)。
その人の個人的な素養もあるかもしれないけれど、私は自分がしてほしいこと・したいことを素直に伝え、向こうも私にしてほしいことを言ってきたので、応えられることは従い、嫌なことは断った。その結果、セックス(というか挿入はほぼなかったが)は多少暴力的なものとなった。その時間はとても楽しかったし、私は最近読んだかのベストセラー『スマホ脳』に、さまざまなアクティビティと並んで当然のようにセックスがストレス解消の代表例の一つとして書かれていたことを思い出した。
ただ同時に、もし相手のことが大好きで大好きで、一生一緒にいたいというような長い関係性を望む場合に、このようなむき出しの暴力的な行為を相手に望むことはないのではという感じもしてくる。自分のフェチが相手に合うものであるのかはわからないし、フェチが解消されなくても相手のことを好きな気持ちは変わらないと思うし、何より自分のフェチを直接的にぶつけてしまえば(たとえ一時的には許容されたとしても)結果として相手に無理を強いて、傷つけてしまう可能性もあるからだ。私は、もし相手のことが本当に大好きで大切に思うならば、自分の欲望をダイレクトにぶつけることは慎むような気がする。凡庸な関係性、あるいはセックスがなくても、一緒にいる安らぎのほうを重視すると思う。今回のような粗雑かつ一時の強い興奮をもたらすような関係は、絶対に長続きしないし、長続きしてしまえばかえって辛いだろう。私が相手を雑に扱っていることは全く否定しようがないのに、相手に継続的に雑に扱われてしまうことに自分が耐えられるとはまるで思えない。
先日、友人から「一番の変態は、同じパートナーとのセックスに何十年も興奮し続けられる人」と聞いて、確かにと思った。(私は一人の人と長期的な関係性を築いたことがないので、あくまで限られた範囲の想像ですが……)相手の好きな部分などを覚えておくことはできるだろうけれども、新鮮な反応などを見る頻度などは減っていくだろう。夫婦間の関係性を維持し、メンテナンスするために、意図的にある程度の回数のセックスを継続していくことは田房永子さんも西村カリンさんも著書で書いていらっしゃることで、私はそのようなエッセイを読むたびにものすごく感激していたけれども、いざ自分で(相手を雑に扱う/扱われることと表裏一体の)刺激のある暴力的な関係を体験すると、それと比較して、夫婦間の長期的・定期的な関係では、学生時代のような刺激的な性交渉が毎回繰り返されているのではないはずで、それとはまた別の、ちょっとしたストレス解消や、日常会話のような関係性が続いているのかもしれないと想像する。そのような夫婦の継続的な関係性についても、この一生で見られるものなら見てみたいし、体験できるものなら自分でも体験してみたい。けれども、30代になってなおフラフラしている我が身にそんな機会が訪れるのか不安に思いながら、明日は常連の友人に連れられてSMバーに行く予定なのである(もうきっと落ち着く日はこない予感がする。でも、それはそれで仕方ないかもしれない)。