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TALK ABOUT THIS WORLD フランス編 令和3年夏の帰国で考えた公共の福祉と個人の自由

中島さおり2021.07.28

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この夏、日本とフランスに共通する大きなテーマは、公共の福祉と個人の自由のせめぎ合いではないかと思う。

今、フランスではPass Sanitaire (衛生パス、ワクチン・パスポートのフランス・バージョン)の適用拡大が国会で議論されており、各地で反対のデモが活発だ。衛生パスは、ロックダウンや夜間外出禁止など、今までとられて来たようなコロナ対策をやめて通常の生活に移行する(非常事態からの離脱)に際して、ワクチン接種済証明またはPCR検査陰性証明、あるいはコロナ感染からの回復証明のいずれかを条件に特定のサービスを受けられるようにする制度で、現在のところ、外国への旅行をする場合や、50人以上のイベントに参加する場合に提示を求められている。その適用範囲が、飲食店やショッピング・センターへの入場、公共交通機関の利用などに拡大される方針が打ち出されると、一部に大きな反対の声が上がった。

ワクチンは、本人が感染する危険を防ぐとともに、他人に感染させる危険も防ぐ。ワクチン接種は、他人のためでもある。デルタ株が現れて、集団免疫はワクチン接種者が9割以上にならないと得られないと言われているが、ワクチンを受けない人が多ければ集団免疫は獲得できない。個人のワクチン接種は公共の福祉に貢献するわけだ。
けれども、ワクチンを打ちたくない人はいる。効果がないと考える人もいるし、副反応の危険を恐れる人もいる。自分自身の体をどうするかはその人の自由であって、他人に強制されて良いものではない。
この場合、どちらを優先するべきなのだろうか。多少、個人の自由を制限してでも感染の危険の少ない社会を作るか、コロナの克服は遅れ、多少の犠牲者が出ても、個人の自由を守るべきか。

しかしこれは、一方の答えが正しいと本質的に判断することはできない問題でもある。細かく具体的な内容を定めずに「公共の福祉のために個人の自由を制限して良い」と言ってしまえば、どこまでエスカレートしてしまうかわからない。それでは「個人の自由は絶対であるから決して制限してはならない」ということになると、(たとえば防げるはずの感染が防げずに死を招いたりして)やはり支障が起こってくるのではないだろうか。答えは、原則として自由を不可侵としながらも、実際には公共の福祉のため、どの程度までなら強制を許容できるか、どこからは決して譲れない自由なのかを、具体的にひとつひとつ確定していくことでしか得られないだろう。

たとえば衛生パスは、通常の生活に戻り経済活動を立て直すために必要だけれど、現在は無料で行われているPCR検査を有料にすることでワクチン接種を促進しようとフランス政府が打ち出したことは、どうなのだろうか。ワクチンが打てない、また打ちたくない人々が不利益を被らないために、PCR検査を無料で受けられる措置は残しておくべきではないか。たとえ、ワクチン促進には逆行するとしても(日本でワクチン・パスポートの導入が話題になるとき、接種済みの人と接種してない人の間が不平等になると言う意見がよく聞かれるけれども、フランスの衛生パスは上述のように、ワクチンだけでなくPCR検査の陰性証明でも同じ役割を果たすので、この検査が無料で受けられるのであれば、何も不平等はないのではないかと私は思っている)。

医療関係者など一定の職種において、ワクチン接種を義務付けする方針も、個人の自由を奪うものと大きな批判を呼んでいる。感染の危険の多い職種にあっては、ワクチンを打ったほうが良いと私も思うが、強制だけは、するべきでない一線ではないだろうか。フランス政府もそう思ってたが、デルタ株の脅威に直面して、こういう策に出たのだろう。けれどもワクチン促進策としてはまだまだ別の手が打てるかもしれない。本当かどうか知らないが、アメリカのどこかの州では、「ワクチン打ったらハンバーガー無料プレゼント」とか「宝くじ付きワクチン」とかで希望者を募ったそうだ。ばかげた方策に見えるけれども、それで自主的にワクチンを打つ人がいるなら、良いことではないだろうか。つまり、打たないことを罰するよりも、打つことに褒美を与えるという方向で対策を考えてみたらどうだろう。
フランスでは7月27日に、ワクチン2回摂取済みの人口が50%を超えた。衛生パスの適用拡大、医療関係者のワクチン義務化には76%のフランス人が賛成している。

この7月、私はフランスから日本に一時帰国した。そしてここで、公共の福祉と私権制限の現場を自ら体験したのだった。

水際対策に引っかかり、日本入国のための手続きが半端でなかったのだ。「Covid-19流行国」から来たわれわれは、フライト前72時間以内のPCR検査が陰性で、日本に到着して空港で受けた抗原検査も陰性であっても、3日間、検疫の定める宿泊所に留め置かれ、移動の自由を制限された。3日目の朝の検査でまたまた陰性の結果が出て、ようやく家に帰れても、さらに11日間、自宅隔離が待っていた。

当局の監視下に置かれ、自由を拘束されることに同意するという誓約書にサインし、厚生労働省の監視を受けるためのアプリ、COCOAとOELとMYSOSをスマートフォンにダウンロードして、自分の居所の位置情報と健康状態を毎日数回、厚生労働省にお知らせしなければならない。

私は毎日、MYSOSで自分にも同居人にも健康に異変がないことを報告した(「ミゾス」と読んでいたこのアプリが「My SOS」だと気づいたときの驚き! 全く異変がなく、助けてほしいわけでもなく、ただただわずらわしいだけのアプリが「マイ・SOS」とは皮肉である)。

日に数回、OELが気まぐれに送ってくる要求にこたえて「今ここ」というボタンを押して所在地を知らせた。さらに無人ビデオコールがかかって来て、30秒、顔面と背景を録画される。そして1日1回、ランダムな時間にビデオコールがかかって来て、「いまいるところは、ご登録くださった宿泊先ですか」というマニュアル読み上げの質問に、「はい、そうです」と答えた。時折、出なかったりすると、「氏名を公表することがあります」という注意メールが送られてきた。

こんなにわずらわしいチェックが入るというのに、ワクチン接種済みかどうかは、どこでも一言も聞かれないというのは、どういうことか。聞いてくれれば、私は(多くの入国者、帰国者も)2回の接種を終えているのだ。フランスだったらPass sanitaire保持者として、行動は自由になるはずなのだけれども……。

私が怖いのは日本人というのは、ちょっとした「管理フリーク」ではないかと感じることだ。羽田空港の検疫センターの手際は良い。皆てきぱきと働いている。それは良いことだ。列を止めて順番を待たせたりする交通整理なども、どこか喜々としているようにすら見える。だからと言ってどうということはない。しかしフランスから到着した乗客をまとめてバスに乗せる目安にするからと、ゴムのついた薄緑色の札を渡され、目立つように腕につけろと指示されるとなると、うっすらと不気味な気がしてくる。なるほど仕分けには便利だろうけれど、人間に荷物のように札をつけるのか。カバンにつけていると「手首か腕につけてください」と再度、注意された。熱心に効率的に仕事をしているだけなのだろうけど、ちょっとこれは……。

隔離ホテルで、飲酒が禁止されているのもなんなのかと思う。私はもともと飲まないから不自由を感じはしなかった。けれども、誰がいかなる理由でお酒を飲む自由を制限するのか。アルコールとコロナになんの関係があるのか。アルコールが入ると大声でしゃべるようになり、唾が飛びやすく、そのため感染させやすい。というような理屈は、専門家の調査の裏付けもあるのでそうかもしれない。しかし、軟禁されている部屋で、一人で酒を飲んだからと言って、誰が感染するのだろうか。誰が決めているのかわからないが、これも熱心すぎる管理フリークではないだろうか。

差し入れやネット通販の購入物は、「凶器や火器が入っていないか」係員がチェックする、という条項も、「入所のしおり」にあった。私は差し入れも買い物もなかったから、係員に直接、私物を改められる現場は体験しなかったが、外国から帰って来ただけで、公衆衛生に協力してホテルに泊まっているわれわれに、まるでテロ対策のようなことをするのはどういうことかとは思った。

こういうことを経験すると、公衆衛生を理由にした私権制限には極力慎重であってほしいと思う。いったん制限して良いとなると、人々が勝手に他人の自由を制限し始めないとは限らないし、その結果がエスカレートしそうで怖い。どこかのホテルで外国人用と日本人用のエレベーターを分けたという、アパルトヘイトそのもののとんでもない事件があった。そこには本人が意識していない差別意識があって、問題にされるべきはそこではあるけれども、やった本人は、公衆衛生のため対策をとっただけのつもりだっただろう。普通の人が勝手に「対策」を取り始めることの怖さがそこにある。

日本では、「基本的人権を尊重するあまり、フランスのようなロックダウンをすることができない」という謎のような話を聞く。ところが、その国で私たち外国からの入国者・帰国者が受けている待遇はいったい何なのだろう? 公衆衛生のために、外国人と帰国者がこれだけ私権制限を受けるというのに、どうしてロックダウンはできないのだろう?

ひょっとして憲法には、基本的人権を享受する対象が、「すべて国民は」と書かれているので、外国人は対象外と思ったりはしていないか? いやいやまさか、と思ったりする。帰国者は「国民」だけれど、いったん、外国に出てしまった者は「よそ者」扱いになってしまっているということは?

3日間が終わり、自宅隔離に入ると、すぐに東京には非常事態宣言が出てしまった。しかしフランスのロックダウンを経験した身からすると、酒類提供する店が休業要請されるだけで他はすべて開いている街は、かなりゆるい制限にしか見えない。フランスではこの6月はじめに再開するまでカフェとレストランは昨年11月から半年以上閉まっていた。開けて良いのはテイクアウトの店だけだった。生活必需品を売る店以外は営業を許されなかったから、基本的にシャッターが降りた街は閑散としていた。

なるほど自粛要請だけで禁止や罰則を科さない日本は違うなと感じるが、外国人と帰国者に対してはあれだけ私権制限できるのに、どうして日本在住者の命を守るためのロックダウンができないのだろうという疑問も生じた。

いや、そもそも憲法は、ロックダウンができないようになど、書かれていないのではないか? 「国家緊急権」が憲法に書かれていないからロックダウンができない、と言われているけれども、私はそうは思わない。法律の専門家では全くないのだけれど、一般国民として中学校で憲法を習ったとき、憲法第13条には、「公共の福祉に反しない限り」という但し書きがあり、基本的人権に制限が加えられる可能性があることを習った。そのときは「自由が制限される危険」として否定的なニュアンスで習ったのだけれども、コロナ危機に直面して私はこの但し書きのことを思いだした。

「公共の福祉に反しない限り」。

つまり、公共の福祉を優先すべきときには、私権が制限される可能性を、憲法は許しているのではないのか。そして、もしこの但し書きが効力を発揮するとしたら、まさにコロナ危機のような事態なのではないか。もちろん、コロナ危機は「予期せぬ事態」だったのだから、具体的な法律は新たに制定しなければならなかっただろうけれども、国家緊急権を憲法に新たに書き込まなくても、コロナ対応の法律を制定すれば、ロックダウンはできるのではないか。

少なくともコロナ危機勃発以来、すでに1年以上経過しているのだから、最初はできなくても今後はできるような法律ができていてもおかしくないのではないか。国家が強制するのであれば、営業停止をせざるを得ない業者には、経済的な不利益を補償する義務も国家には生じるだろう。自粛はあくまで自由意志でやっているものだから国家が補償する義務はないという理屈で、公共の福祉に貢献した業者が廃業に追い込まれるという形こそ、おかしい気がする。日本政府はいったいどこで誰の基本的人権を尊重しているのだか、よくわからない。

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中島さおり

中島さおり(なかじま・さおり)

エッセイスト・翻訳家
パリ第三大学比較文学科博士準備課程修了
パリ近郊在住 フランス人の夫と子ども二人
著書 『パリの女は産んでいる』(ポプラ社)『パリママの24時間』(集英社)『なぜフランスでは子どもが増えるのか』(講談社現代新書)
訳書 『ナタリー』ダヴィド・フェンキノス(早川書房)、『郊外少年マリク』マブルーク・ラシュディ(集英社)『私の欲しいものリスト』グレゴワール・ドラクール(早川書房)など
最近の趣味 ピアノ(子どものころ習ったピアノを三年前に再開。私立のコンセルヴァトワールで真面目にレッスンを受けている。)
PHOTO:Manabu Matsunaga

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